徳川慶喜側室

一色須賀(いっしきすが)      天保9年4月26日〜昭和4年(1838-1929)

    幼名、みち。名、須賀。父、旗本西の丸小姓組藩士一色貞之助定住(長女)で、一色家の婿養子。江戸赤坂仲町の築地屋敷で生まれる。母の名は"ます"で、甲府勤番支配の旗本松平伯耆守信愛の二男が一色家に婿養子として入り生れた。伯父には、大目付や外国奉行を務めた駒井信興がいる。6歳のとき一橋家の奥女中であった伯母の杉浦の養女となり、一橋家に入る。のち、徳川慶喜の正室美賀子付きの女中となる。美賀子没後も慶喜に仕え、文政4年(1821)17歳で慶喜(このとき18歳)の側室となる。大奥には入らず、慶喜を奥向き女中頭として仕えた。慶喜には、正室と須賀に子は無かったが、側室の間に10男11女を設け、8人は夭折し多くは成人し、それぞれ明治時代の中でことごとく高い地位にある。これは一色須賀によるところが大きいといわれる。92歳。墓碑は、正面より左側、「徳川家之墓」の後ろ側。正面「一色寿賀之墓」。"寿"である点に留意。

中根幸子(なかねさちこ)     ?〜大正4年12月29日(?-1915)

     通称、お幸の方。父、旗本中根芳三郎。元旗本成田新十郎の養女となり側室となる。もう一人の側室新村信と1日交代で夜を勤め、お夜伽をしない日は、お湯殿当番をしたという。お幸の子は、4男徳川厚(分家)、明治9年(1876)7月4女筆子(蜂須賀正韶夫人)、明治13年(1880)9月7女浪子(松平斉夫人)、明治15年(1882)1月10女国子(大河内輝耕夫人)、明治16年(1883)11女糸子(四条隆愛夫人)、9男徳川誠(分家)。最後まで慶喜の身の回りの世話をし、その死を見届けた。墓は、慶喜墓後、左の墓標。正面「中根幸子」。

新村信(にいむらのぶ)     嘉永5年?〜明治38年2月8日(1852?-1905)

     通称、お信の方。父、元旗本松井勘十郎。旗本荒井省吾の養女となり、さらに小姓頭取新村猛雄の養女となって側室にあがる。新村猛雄は、一橋家時代から慶喜に仕え、維新後も慶喜家の家扶をつとめる。また、言語学者新村出(1876-1967:京都大学名誉教授)の養父でもある。幕末には、慶喜に10人ほど側室がいたが、維新後に駿府に移り住むようになって、ほとんどの側室に暇をとらせた。最後まで慶喜の身の回りの世話をしたのは、新村信と中根幸子だった。お信の子は、明治8年(1875)10月3女鉄子(徳川達道夫人)、明治10年(1877)8月5日5男仲博(池田輝知の養子)、明治15年(1882)9月9女経子(伏見宮博恭王妃)、明治17年(1884)9月7男徳川慶久(慶喜の後嗣)、明治20年(1887)12女英子(水戸徳川圀順夫人)、明治21年(1888)8月10男勝精(勝海舟の養子)。墓は、慶喜墓後、右の墓標。正面「新村信子」。

墓は、寛永寺谷中墓地。徳川慶喜墓域内。