阪谷芳郎(さかたによしお)    文久3年1月16日〜昭和16年11月14日(1863-1941)

    4代東京市長。現岡山県井原市(備中寺戸)出身。父、阪谷朗盧(四男)。明治5年(1872)東京に移る。11歳のとき箕作秋坪に師事。東京英語学校、東京大学文学部で学ぶ。明治17年(1884)卒業し大蔵省に勤務し明治20年(1887)25歳で主計局調査課長となり会計法を提案した。その後も大蔵省内で出世し、明治39年(1906)日露戦争後の疲弊した日本に第一次西園寺内閣の蔵相として登場し、財政立て直しに敏腕を奮う。明治40年(1907)男爵となる。明治41年(1908)退官したが、明治45年(1912-1915)東京市長となった。大正6年(1917)には貴族院議員となった。カーネギー平和財団の会議やパリ連合国政府経済会議等に出席。日語文科学校創設・神宮球場の設立に尽力した。その他、多数の学校・学会・団体・会社などに関係し、「百会長」と称された。昭和16年(1941)子爵。正二位。79歳。長男阪谷希一。甥は、阪谷良之進。曾孫久美子は元首相橋本龍太郎夫人。

※ この他に谷中墓地に関係する東京市長は、初代松田秀雄、13代堀切善次郎、17代頼母木桂吉などがいる。

墓は、谷中霊園乙11号2側。渋沢栄一一族の囲いの中で施錠されていて入るには許可が必要。なぜ渋沢一族の区画内に墓があるかというと、妻琴子は渋沢栄一の二女(穂積陳重の妻穂積歌子の妹)だから。