堀切善次郎(ほりきりぜんじろう) 明治17年9月2日〜昭和54年11月1日(1884-1979)
13代東京市長(1929-1930)・幣原内閣の内務大臣。福島県豪商豪農の出身。父、福島県会議員の堀切良平(二男)。東京帝国大学卒業。明治42年(1909)内務省出仕。以来、東京府属・同試補。岩手県・福島県各事務官。広島県・京都府各理事官。内務監察官・同参事官・同書記官・内務省都市計画局長・土木局長など歴任。渡欧(1919-1921)し、ドイツで革命後のワイマール憲法の選挙法その他を調査して帰国し、普通選挙制の実施に尽力した。大正14年(1925)神奈川県知事。大正15年(1926)復興局長官。昭和4年(1929)13代東京市長。昭和6年(1931)拓務次官。昭和7年(1932)斉藤内閣の法制局長官。昭和8年(1933)内閣書記官長兼資源局長官。国民精神総動員連盟理事長。昭和9年(1934)帝都復興事業の功績により従三位勲一等旭日大綬章(最終的に正三位)。昭和20年(1945)幣原内閣時の内務大臣。戦後は、昭和29年(1954)から15年間東京都公安委員長。兄に衆議院議員の堀切善兵衛(1882-1946)が、弟に衆議院議員の内池久五郎がいる。妻澄子(昭和62年6月8日歿、82歳)は、平林金蔵の長女。95歳。「積徳院釈善功法潤居士」。
※ この他に谷中墓地に関する東京市長は、初代松田秀雄、4代阪谷芳郎、17代頼母木桂吉らがいる。
堀切治雄(ほりきりはるお) 大正3年6月22日〜平成10年11月19日(1914-1998)
日本鋼管常務取締役。父、堀切善次郎。昭和13年(1938)京都帝国大学法学部卒業。同年日本鋼管(NKK)に入社。昭和37年(1962)人事部長。昭和40年(1965)大阪営業所長。昭和43年(1968)管理部長。同年取締役。昭和46年(1971)常務取締役。昭和51年(1976)顧問。のち社友。さきに日本鋼管不動産社長を経て会長。昭和60年(1985)エヌケーリース社長も務める。がん性胸膜炎のため田園調布中央病院で死去。84歳。妻、マツ。「浄縁院釈治徳信楽居士」。
墓は、谷中霊園甲9号新1側。さくら通り沿い。正面「堀切家之墓」。