頼母木桂吉(たのもぎけいきち)    慶応3年10月10日〜昭和15年2月19日(1867-1940)

    第2次若槻内閣の逓信政務次官(1931)・広田弘毅内閣の逓信大臣(1936-1937)・第17代東京市長(1939-1940)・報知新聞社社長。広島県芦品郡綱引村(福山市)生まれ。東京浅草出身。旧姓、井上。父、広島県井上又一郎(長男)。東京高等中学校(一高)卒業。明治29年(1896)報知新聞に入社。記者・営業部長を経て実業界に入る。明治36年(1903)頼母木源七の娘婿となる。明治38年(1905-1907)新聞事業調査のため欧米を廻る。明治42年(1909)ジャパンプレス エイジェンシーを設立。明治34年(1910)伊藤博文暗殺の実写映画を公開。明治44年(1911)浅草区議会議員・東京市会議員。その後、東京毎日新聞・帝国通信社・日本タイプライターなど多くの会社の役員などを歴任。明治の末期日活設立に動いた一人であり当時東京京橋で生フィルムの輸入業をしていた。逓信大臣時代に「わが国貨物船はすべからく目標を六百万トンに」すべしと主張、積極的な造船業支援政策を実施した。大正4年(1915)衆議院議員、以後連続9回当選。この間、公友倶楽部・憲政会・立憲民政党に所属。大正10年(1921)憲政政務調査会長、のち幹事長・総務。大正14年(1925)加藤内閣の逓信政務次官。昭和4年(1929)民政党総裁。昭和11年(1936)広田内閣の逓信大臣となり、電力国営化法案を提出。大臣辞任後、報知新聞社社長。昭和14年(1881)第17代東京市長に当選したが、在任わずか10カ月で病没した。74歳。妻は音楽家頼母木駒。
※ 昭和16年(1941)浅草北富坂町を中心に合併し「浅草桂町」が誕生したが、町名は、地元出身の政治家頼母木桂吉の功績をたたえ名前の1字をとって名付けられた。しかし、昭和39年蔵前3丁目と4丁目に分かれその名を消した。ほかに谷中墓地に関わる東京市長は、初代松田秀雄、4代阪谷芳郎、13代堀切善次郎らがいる。

頼母木駒(たのもぎこま)/頼母木駒子    明治7年4月1日〜昭和11年10月14日(1874-1936)

    ヴァイオリン奏者・音楽家・東京音楽学校(東京芸術大学)勅認教授。浜松出身。明治26年(1893)東京音楽学校を卒業し、明治27年〜昭和3年(1894-1928)までの35年間、東京音楽学校のヴァイオリンを指導し、明治42年(1909)教授、婦人では2番目の勅任2等の教授だった。このころ、音楽学校は、女性教授優位だったため、ジャーナリズムから中傷を受けた。従四等勲五等。従四位勲五等瑞宝章は、女性として異例。63歳。夫は逓信大臣などの政治家頼母木桂吉。

頼母木真六(たのもぎしんろく)    昭和32年1月26日〜昭和43年8月3日(1899-1968)

    政治家・ジャーナリスト。旧姓、関。父、関源二(六男)。逓信大臣頼母木桂吉の養子。東京出身。慶応大学中退。カリフォルニア州「日米新聞」記者。大阪朝日新聞サンフランシスコ特派員。東京朝日新聞記者。昭和6年(1931)日本放送協会に入り、国際課長・宣伝部長・国際部長。昭和17年(1942)養父桂吉の後を継ぎ総選挙に出て当選、衆議院議員となる。運輸大臣秘書。戦後、公職追放後、改進党副幹事長。日本民主党相談役。69歳。

墓は、谷中霊園乙3号18側。正面「頼母木家之墓」。