箕作秋坪(みつくりしゅうへい) 文政8年12月8日〜明治19年12月3日(1825-1886)
幕末明治の蘭学者。名、矩。通称、文蔵・矩二郎。号、宜信斎。父、津山藩儒者菊池士郎文理(次男)。備中国上砦部村出身。13歳で父を亡くし津山藩の儒者稲垣茂松に引き取られた。のち、津山藩典医箕作阮甫(1799-1863)に師事。19歳で江戸に出て古賀?庵(?:人偏+同)に師事。その勧めで箕作阮甫に入門。また大阪の緒方洪庵に師事。嘉永2年(1849)江戸に帰り、嘉永4年(1851)箕作阮甫(墓は、多摩霊園)に見込まれてその婿養子(二女つねと結婚)となる。嘉永6年(1853)幕府天文方の翻訳員となる。安政2年(1855)養父の跡を継ぐ。安政6年(1859)蕃調所の教授手伝、外国方。文久元年(1861)遣欧使節団に加わり福沢諭吉らとヨーロッパを視察、ロシアとの国境交渉も行うが決裂。慶応2年(1866)樺太の国境交渉のため再度ロシアへ使節として派遣された。維新後、家を長子箕作奎吾にゆずり、学校教育者の養成を目指し、英学塾「箕作塾三叉学舎」を開設、東郷平八郎、原敬、平沼麒一郎らを輩出した。また、明治6年(1873)森有礼・中村正直らと「明六社」を興す。明治8年(1875)東京師範学校の開校にあたり摂理となる。学士院会員。教育博物館長兼東京図書館長。62歳。長男に箕作奎吾、二男に菊池大麓、三男に箕作佳吉と四男に箕作元八がいる。長女の直子は、人類学者坪井正五郎(1863-1913)に嫁ぎ、子に地球物理学者の坪井忠二がいる。日本最大の学者一族と言われる。妻常:「順承院慈恵常貞大姉」。後妻しん:「明智院満誉貞鑑大姉」。
※ 後妻ちま/しん(1832-1894): 父、箕作阮甫(三女)。母、大村とよ。初名、しん。はじめ奥州水沢邑主伊達将監家臣佐々木透規の二男箕作省吾(阮甫の養子)を婿とし、男爵箕作麟祥を産むが、幾ばくも無く夫と死別。ついで、箕作秋坪と再婚する。箕作麟祥は、祖父阮甫に育てられる。なお、箕作麟祥の先妻もと は、三沢精確の三女であるが、三沢精確の妻は、佐藤泰然の二女なので、箕作麟祥は、佐藤泰然の孫娘と結婚したのである。
墓は、谷中霊園 乙5号2側(低地側飛び地)。菊池大麓墓の隣り。正面「箕作秋坪先生之墓」。男子4人の墓は、同域にすべてある。