佐藤泰然(さとうたいぜん) 文化元年〜明治5年4月10日(1804-1872)
佐倉順天堂病院を創立。「和田塾」を開く。幼名、昇太郎。号、泰然・紅園・蘭翁。父、幕府蘭医方佐藤信隆(長男)。武州国川崎出身。天保元年(1830)足立長雋に師事。のち、高野長英に師事。天保6年(1835)長崎に行き商館長ニーマンに海外事情を教わる。さらに蘭医大石逸から最新医方を修得。明治9年(1876)江戸に戻り、両国薬研掘に西洋外科医を開業。林洞海・三宅艮斎・山口舜海(佐藤尚中)・岡南洋らを輩出。嘉永6年(1853)山口舜海を養子とする。たまたま佐倉城主堀田備中守の病気を診て信頼を得て、安政6年(1859)佐倉藩候の招請により佐倉本町に塾「順天塾」を作り、佐藤泰然と名を改め、日本最初の私立病院「順天堂」を開設した。安政6年(1859)隠居し、佐藤尚中が跡を継ぐ。69歳。長男総は、山村姓となる。次男に松本良順(1832-1907)がいる。泰然と親しかった幕府寄合医師松本良甫は良順を養継として迎えた。三男薫(1850-1913:伯爵)は、林洞海家を継ぎ、伯爵・第1次西園寺内閣の外務大臣となる。三女富は、白戸惠三郎の養女となり、同じく養子になった白戸隆盛と結婚。
※ 佐倉城内において、豚・犬・猫を解剖して見せて、漢方医の誤りを指摘するなどして佐倉藩に西洋医学を啓蒙した。また、外交についても堀田正陸を補佐し、親密な仲だったといわれる。
墓は、谷中霊園甲新16号24側。御殿坂側コンビニ前。26側の標識が目立つので、これを探せば隣り。平成5年(1993)乙11号14側から移転した。正面「佐藤信圭/室 瀧子 之墓」。松本良甫の墓は、佐藤泰然の墓域にある「前侍醫法眼松本戴墓」がそれ。