佐藤尚中(さとうたかなか) 文政11年4月〜明治15年7月23日(1828-1882)
明治初期の外科医師。名、舜海。字、泰卿。通称、尚中。幼名、竜太郎。号、笠翁。父、小見川藩医山口甫僊(二男)。下総国小見川(千葉県香取郡小見川町)出身。順天堂病院を創立。寺門静軒に儒学を、江戸で安藤文沢に西洋医学を学ぶ。天保13年(1842)文沢の推挙で西洋医外科佐藤泰然の「和田塾」に入門。嘉永6年(1853)泰然の養子となる。泰然が佐倉藩主の招きで移り住み、佐倉本町に塾「順天堂」を作り診療すると、尚中も移る。万延元年(1860)泰然を説き伏せ長崎でポンペから西洋医学を学ぶ。文久2年(1862)帰国して「済衆精舎(さいしゅうしょうじゃ)」と入院施設を開設。佐倉藩の医制改革をし、漢方を廃止した。安政5年(1858)卵巣皮様のう腫手術を日本で初めて行う。その後、慶応3年(1867)佐倉藩に「佐倉養生所」をつくるが、戊辰戦争のため慶応4年(1868)閉鎖。明治政府の要請により「大学東校(東京大学医学部)」に勤め大博士となる。明治3年(1870)明治天皇侍医、文部大丞・文部大教授大典医。明治6年(1873)下谷万年町に私立「順天堂医院」を開設。明治8年(1875)湯島(現在の所)に移転。従五位。夫人は、佐藤泰然の娘楽子。長男は、佐藤百太郎。著書:「外科医方」、「ストロマイエル砲痍論」、「済衆録」、「セクリュス外科書」。
※ 佐藤百太郎(さとうももたろう:嘉永6年〜明治43年12月24日): 佐藤尚中の長男。慶応3年(1867)私費でサンフランシスコに赴く。帰国後大蔵省出仕。明治4年(1871)公費留学。明治8年(1875)狭山茶を輸出、翌年には佐倉茶を輸出、明治9年(1876)ニューヨークに「日の出商会」を設立するなど日米貿易の先駆者。アメリカで日本領事も務める。墓は、京都桃山の善光寺。
墓は、谷中霊園 甲9号1側。駐在所前交差点を西に約20m。ぎんなん通りに面する。正面「従五位佐藤尚中之墓」。「杏雲院殿道環尚中居士」。碑は、甲4号7側の駐在所横ぎんなん通りを挟んで並び、さくら通り沿い。碑2基目にある。養子の佐藤佐(さとうたすく:1857-1919)墓は、乙8号4側。