三宅艮斎(みやけごんさい) 文化14年〜慶応4年7月3日(1817-1868)
蘭方医。肥前国島原(佐賀県)出身。名、温。幼名、桃樹。通称、子厚。父、医師三宅英庵。8歳で熊本において就学。天保元年(1830)長崎の楢林栄建に師事。天保9年(1839)江戸で開業。弘化元年(1844)佐藤泰然の勧めで下総佐倉藩医となる。安政5年(1858)神田お玉ヶ池の種痘所頭取。文久3年(1863)同所が西洋医学所と改名になると外科手術および繃帯学(ほうたいがく)を教授。漢訳洋書「西医略論」、「内科新説」などを復刻出版した。食道がんで没する。なお、艮斎の長男三宅秀(ひいず:1848-1938)は、文久3年(1863)の第二回遣欧使節に随行し、のちに東京大学で最初の医学博士・名誉教授となった人物。
墓は、天王寺墓地。石本新六墓横の大椎の木の下。正面「三宅家之墓」。「観龍院殿総誉子厚英信居士」。