三宅秀(みやけひいず)    嘉永元年11月〜昭和13年3月16日(1848-1938)

    医師。父、三宅艮斎(長男)。東京本所出身。幼名、復一。幼少にして杉竹外に漢籍を、川島元成に蘭学を学ぶ。また、高島秋帆の塾に学び、のち英学を志向、文久2年(1862)幕府遣欧使節に随行しフランスに渡る。帰国後、横浜英語学校でヘボンにつき英語を学び、また米国軍医ウォットルの内塾生となって3年間医学を修めた。慶応3年(1867)加賀藩に招聘され金沢で英語と数学を教えるが、オスボンからフランス語を学ぶ。明治3年(1870)東京大学に出仕。はじめ中助教。翌年大助教・文省教授・東京医学校長心得。明治9年(1876)フィラデルフィア市万国医学会に副会長として参列。席上ラテン語で講義し世界の学者を驚かせる。明治10年(1877)帰国後は東大医学部教授兼医科大学長となり、病理学・診断学・法医学・医史学を講じ、日本の医育制度の基礎を作った。明治18年(1885)医学教育制度調査の目的で再びヨーロッパに赴き、明治20年(1887)に帰国。明治21年(1888)最初の医学博士号を取得。明治24年(1891)帝国大学名誉教授・勅選貴族院議員。91歳。著書:「病体剖観示要」、「病理総論病理各論」、「治療通論」など多数。子に精神病理学者の三宅鉱一(1876-1969)、4女菊尾は、佐々木謙一郎の妻。孫に病理学者の三宅仁(みやけまさし:1908-1969)がいる。

墓は、天王寺墓地。石本新六墓横の大椎の木の下。正面「三宅家之墓」。三宅艮斎に合祀。「宝樹院殿秀誉寿翁淨道居士」。