菊池大麓(きくちだいろく)    安政2年1月29日〜大正6年8月19日(1855-1917)

    明治期の数学家・政治家・男爵。名、大六・大麓。父、津山藩の蘭学者の箕作秋坪(次男)。母、箕作阮甫(父秋坪の養父)の二女つね。江戸に生まれる。津山藩(岡山県津山市)出身。6歳で蕃書調所(のち開成所:東京大学の前身)に入り英語を学ぶ。慶応3年(1867)12歳のとき幕命で中村敬宇を取締とした留学に加わり、兄箕作奎吾外山正一中村正直・川路大郎ら14名と英国に留学し、途中幕府の瓦解により召還される。明治元年(1868)帰国し、開成学校に入り、翌年大学出仕となる。明治3年(1870)の2度目の英国に留学し、ケンブリッジ大学で数学・物理を修める。8年間ほど滞在し、成績優秀で、年10ポンドの賞金を得て帰国。明治10年(1877)帰国後、父秋坪の実家菊池家を継ぐため菊池文隆の養子となる。同年東京帝国大学理学部に数学科を創設、理学部教授となり、日本で初めて洋算の講義をする。明治14年(1881)東京大学に数学科を創設。明治20年(1887)には、大麓の建議により日本標準時が決定される。また、明治20年(1887)代には、藤沢利喜太郎も数学科に加わり、内容が一段と充実する。明治21年(1888)理学博士。神田孝平らと「東京数学会社」(のちの数学物理学会)設立、数学雑誌や「初等幾何学教科書」を発行。明治22年(1889)帝国学士院会員。明治23年(1890)貴族院議員。明治31年(1898)東京帝国大学名誉教授。明治34年(1901)第1次桂内閣文部大臣。明治35年(1902)男爵となる。東京帝国大学総長・明治37年(1904)学習院院長・明治41年(1908)京都帝国大学総長・理化学研究所初代所長・明治42年(1909)帝国学士院第8代院長・文部省専門学務局長・文部次官・枢密顧問官などを歴任。大正6年(1917)理化学研究所の開設に伴い初代所長に就任。正二位勲一等。63歳。訳書:「修辞及華文」、「職業教育論」、「初等幾何学教科書」。

※ 親族:妻タツが亡くなった後、箕作阮甫の三女シンを後妻とした。シンは、のちに地理学者箕作省吾と結婚する。動物学者の箕作佳吉と歴史家の箕作元八は大麓の弟。長男箕作奎吾は、夭折。二男菊池泰二(下記)は、嗣子であり男爵を継ぐ。三男菊池健三は、東京大学教授。四男菊池正士は、原子物理学者。長女多美子(タミ)は憲法学者で東京都知事美濃部亮吉(1904-1984)の妻。2女千代子は、政治家鳩山一郎の兄鳩山秀夫の妻。三女冬子は、法律学者末弘厳太郎の妻。四女英子は、鉄道省技官平山復二郎の妻。五女百合子は、官僚川村秀文の妻。後妻シンとの間に生まれた坪井直子は、人類学の開拓者で東大教授の坪井正五郎と結婚、その子の長男坪井誠太郎は、理学博士で東大教授。二男坪井忠二は、地球物理学者。

菊池泰二(きくちたいじ)     明治26年〜大正10年(1893-1921)

理学者・男爵。父、菊池大麓。逓信省電気試験所から理化学研究所に勤務。大正6年(1917)兄箕作奎吾(長男)が夭折のため、父大麓の死去にともない家督および爵位を相続。大正8年(1919)理化学研究所より英国ケンブリッジの聖ジューン・カレッジに在学。理化学研究中に没する。23歳。

墓は、谷中霊園 乙5号2側(低地側飛び地)。正面「菊池家累世之墓」。父、箕作秋坪墓に並ぶ。墓碑に没年記載なし。建立は大正7年(1918)。墓誌は、本人以外は名前だけ。