鳩山一郎(はとやまいちろう) 明治16年1月1日〜昭和34年3月7日(1883-1959)
戦後の首相。東京出身。父、鳩山和夫(長男)。母、多賀務の娘春子。明治40年(1907)東京帝国大学英法科卒業。弁護士、東京市議を経て、大正4年(1915)衆議院議員(政友会)。昭和2年(1927)田中義一内閣の書記官長。昭和6年(1931)犬養毅内閣および昭和7年(1932)斉藤内閣で文部大臣。京大滝川事件・大蔵省疑獄事件・政友会分裂など多くの事件やトラブルの後、戦後自由党結成で初代総裁となり昭和21年(1946)組閣寸前で公職追放となり吉田茂に総裁を譲り「悲劇の宰相候補」と呼ばれた。昭和27年(1952)総選挙で当選し政界に復帰。昭和29年(1954)日本民主党を結成し、首相となる。社会党の台頭に対抗し昭和30年(1955)自由民主党を結成し総裁となる。昭和31年(1956)日ソ共同宣言に調印。76歳。妻薫は、寺田栄の長女。長男は、鳩山威一郎。次女玲子は、鳩山秀雄の子鳩山道夫の妻。三女節子と五女信子は、渡辺暁雄の妻。
鳩山薫(はとやまかおる) 明治21年11月21日〜昭和57年8月15日(1888-1982)
共立女子学園理事長・大学長。父、貴族院議員寺田栄(長女)。鳩山一郎の妻。福岡出身(横浜説あり)。13歳のとき母親を亡くし、祖母を助け、弟や妹の面倒をみながら、麹町の女子学院の英語科に通う。18歳のとき、鳩山家の養女となり、高等教育をうける。明治41年(1908)20歳で鳩山一郎と結婚。身体の不自由な夫の政治活動を助ける。昭和13年(1938)夫一郎の母春子の跡を継いで、第7代学園長・共立女子学園理事長。昭和29年(1954)夫が首相になると"宰相をつくりあげた賢夫人"といわれる。昭和31年(1956)鳩山一郎に同行し、訪ソ。昭和34年(1959)夫の没後は、長男威一郎と孫の鳩山邦夫を国会議員にするなど4代にわたる政治家一家を支えた。この間、愛国婦人会評議員・大日本婦人会理事・日本国際協会婦人部委員・大日本航空婦人会理事・東京婦人会館理事・結核予防会東京婦人委員会常任理事などの要職をつとめる。勲一等瑞宝章。93歳。
墓は、谷中霊園乙8号4側。ひょうたん横丁通りに面する。西向き。横山大観墓の隣り。墓碑裏の没年は、左側が一郎。子であり国会議員であった鳩山威一郎の墓もある。
※ 鳩山一郎の納骨のときは、河野一郎・大野伴睦らの会装があったという。