鳩山和夫(はとやまかずお)    安政3年4月3日〜明治44年10月3日(1856-1911)

    明治期の政治家。父、美作国勝山藩士重臣鳩山溥房。東京出身。明治3年(1870)美作藩の貢進生となり、開成学校から大学南校に入り法律を修める。明治8年(1875-1880)文部省留学生としてコロンビア大学とエール大学を卒業し法学博士となる。明治13年(1880)8月帰国して東京大学の講師をするが、明治15年(1882)辞して代言人となり世を驚かせ、東京代言組合長に就任し、代言人制度の整備・私学教育の進展・立憲政治の推進に活躍。東京府議を経て、明治18年(1885)外務省に勤務、外務権大書記官。明治19年(1886)取調局長・翻訳局長に、更に明治19年(1886)帝国大学法科大学教授、明治21年(1888)法学博士。明治23年(1890)東京専門学校(早稲田大学)学長。明治27年(1894)衆議院議員。明治29年(1896)衆議院議長。明治31年(1898)第1次大隈内閣の外務大臣。明治41年(1908)で東京市会議員。明治42年(1909)政友会に入る。この間、東京専門学校(早稲田大学)校長を務める。従四位勲三等。56歳。子に政治家鳩山一郎・東大教授鳩山秀雄がいる。

鳩山春子(はとやまはるこ)     文久元年3月23日〜昭和13年7月12日(1861-1938)

教育家・共立女子専門学校長。父、松本藩士多賀務(旧名、渡辺幸右衛門)(5女)。長野県松本出身。近所の私塾に通ったのち、明治6年(1873)開智学校女子部に入学。翌年父と上京し、官立東京女子学校に入学し、はじめて英語も学ぶ。明治10年(1877)これが廃校となり東京女子高等師範の特別英学科に入学。明治11年(1878)本科入学。翌年アメリカ留学を命じられるが内閣内に女子留学に反対する者がいて中止となる。明治14年(1881)東京女子高等師範学校卒業。母校の教師となるが、わずか3カ月余りで辞任。同年鳩山和夫と結婚。当時としてはめずらしい(国内初とも)結婚披露宴を行う。一郎と秀雄を出産後、明治17年(1884)母校に再就職。以後、女子教育活動に尽力する。明治19年(1886)宮川保全と共立女子職業学校を創設、のち大正11年(1922)6代目校長。明治21年(1888)津田梅子らと「婦人質問会」を組織。明治31年(1898)婦人技芸慈善会を組織。明治34年(1901)夫と欧米を周遊。鹿鳴館時代に社交界入りし、下田歌子・山脇房子らと明治婦人会の中心人物となり、明治38年(195)日露戦争時に「愛国婦人会」を組織。ほか大日本婦人教育会など各種団体にて婦人啓蒙運動や育英事業に尽力。共立女子職業学校時代においては、英語の教師をしつつ一方では、裁縫科の生徒となり末席に座して稽古を始めたという。大正11年(1922)共立女子職業学校校長。昭和3年(1928)共立女子専門学校を、昭和11年(1936)共立高等女学校を設立し校長となる。脳溢血で没する。78歳。勲四等。著書:「我が自叙伝」、「我が子の教育」、「婦人の修養」。

墓は、谷中霊園乙8号4側。ひょうたん横丁通りに面する。西向き。横山大観墓の隣り。子であり国会議員であった鳩山一郎の墓もある。鳩山和夫の葬儀のおり、葬列の先頭が谷中に着いたとき、まだ最後尾は文京区音羽の屋敷を出ていなかったという。ひ孫の鳩山由紀夫総理大臣のニュースにたびたび登場する音羽の鳩山御殿の庭に、和郎と春子の銅像がある。公開日には見学できる。