宮川保全(みやかわやすのり)    嘉永5年〜大正11年11月21日(1852-1922)

    明治期の教育者・実業家・共立女子大学設立。正六位勲五等。東京出身。兵学校(明治期の下士官養成機関・)に入学するも明治5年(1872)の兵学校廃止とともに教導団に編入されたが、翌年除隊。明治7年(1874)には文部省に出仕、長崎師範学校に勤務。その後東京女子師範学校・東京師範学校で数学を教える。明治18年(1885)から明治23年(1890)ころ、洋風化が流行り、官立の女子高においても男子と同じ扱いを受けることが起きた。生徒は洋服を着用し、華やかなダンスが校内で繰り広げられ、寄宿舎も畳がなくなり、寝室はベッドになった。現在の感覚では、結構なことと思われるが、まだ男尊女卑の風潮が色濃い時代で、好ましくないと考える人も多くいた。宮川保全もその一人であった。宮川は、この風潮に憤然とし、勤務していた官立の東京女子師範学校を辞め、明治19年(1886)私立の女子学校である共立女子職業学校(のちの共立女子学園)を鳩山春子・永井久一郎(永井荷風の父)・服部一三・手島精一・渡辺辰五郎などら34名とおこした。以後同校の教育に従事した。その傍ら、実業家としては、中央堂や大日本図書出版会社などを経営した。大正5年(1916)校長となる。数学関係の著書・訳多数。

墓は、谷中霊園 甲9号18側。玉乃世履墓の向かい。正面「正六位勲五等宮川保全之墓/妻はな之墓」。