神田孝平(かんだたかひら)    文政13年9月〜明治31年7月5日(1830-1898)

    明治期の洋学者・啓蒙思想家、貴族院議員。美濃国不破郡出身。弘化4年(1847)京都で漢学を学ぶ。嘉永2年(1849)江戸で松崎慊堂に師事後、杉田成卿(1817-1859)、伊藤玄朴らから蘭学を学ぶ。文久2年(1862)蕃書調所の臨時教授として数学を教えた。その後、開成所教授並・同頭取を歴任。明治元年(1868)明治政府に出仕し、会計官権判事。明治4年(1871-1876)第7代兵庫権令。明治7年(1874)に全国に先駆けて兵庫県会を開いたほか、県庁機構の整備・近代化、梅毒病院・神戸病院附属医学所の開設、馬鈴薯栽培の導入等に尽力し名権令といわれた。埼玉県令白根多助と共に良2000石の称あり。明治9年(1876)元老院議官。明治10年(1877)東京数学会社(日本物理学会の前身)創立。明治20年(1887)東京人類学会(日本人類学会の前身)初代会長。明治23年(1890)貴族院議員。学士院会員。福沢諭吉(1834-1901)・津田仙(1837-1908)らと親交があり、政治・経済・法律・数理・文学・人類学・天文学に通じた人物だった。叔父に蘭学者神田柳渓(かんだりゅうけい)がいる。69歳。著書:「数学教授本」など。養子に英文学者の神田乃武(かんだないぶ:1857-1923)がいる。

墓は、甲12号左1側。石畳の通路側に背を向けている。正面「神田家之墓」。「神性院淡崖孝平居士」。墓誌なし。