白根多助(しらねたすけ)    文政2年5月6日〜明治15年3月15日(1819-1882)

    長州藩士・埼玉県令。名、翼。父、太田直猷。白根兼清の養子。山口市吉敷の出身。白根兼清に養われ嗣子となる。毛利家に仕え、勤王派で、幕末に天誅組の乱で公家中山忠光公が大和に兵を挙兵し敗走の際、文久3年(1863)中山忠光卿が京都藩邸に投宿したのを庇護し、長州へ送る。のち自らも帰国し、所帯方の役人となり、非常時の長州藩の財政に貢献する。維新後、明治4年(1871)埼玉県権大参事。埼玉県第2代県令(知事)として、明治8(1875)から明治15年(1882)在籍し県政に尽くした。特に教育、産業の発展に力を注ぎ、中央受けをねらわず県民の福利増進につとめた。神田孝平とともに名県令として知られる。正五位勲四等旭日小綬章。贈従四位。64歳。二男に白根専一がいる。孫に白根竹助がいる。埼玉県大宮公園に碑がある。

辞世「諸人の尽くす誠の浅唐は、かかる恵みの露を受けめや」。

※ 中山忠光(なかやまただみつ:1845-1864):尊王攘夷派の志士と共に公武合体に反対。文久3年(1863)京都を脱出、長州藩に身を投じる。のち変名で「天誅組の変」を起こす。再び長州へ逃れ、長州藩は支藩の長府藩に預け保護したが、長府藩の豊浦郡耕村で暗殺される。

墓は、谷中霊園 乙10号左2側。正面「埼玉県令正五位勲四等白根多助墓」。