外山正一(とやままさかず/とやましょういち) 嘉永元年9月27日〜明治33年3月8日(1848-1900)
社会学者・東京大学総長。幼名、捨八。号、ゝ山(ちゆざん)。父、幕臣神田講武所歩兵指南役、外山忠兵衛正義(長男)。江戸小石川柳町出身。幼児期に父から「大学」、「論語」などの素読を受け、武芸にも上達する。文久元年(1861)蕃書調所で英学を修める。傍ら箕作麟祥の塾に行き、さらに大岡芳之助を自宅に招き勉強する。文久3年(1863)16歳にして開成所教授方となる。慶応2年(1866)19歳のとき幕命により中村正直、川路大郎・箕作圭吾・菊池大麓・市川盛三郎・林薫など14名とともにイギリスに留学。明治元年(1868)幕府瓦解のため帰国、徳川家の移封に伴い、駿河府中に赴き静岡学校の英語部長となる。中村正直もここの教授で、漢学部長を兼ねていた。明治3年(1870)外務省弁務少記、外務指大録に昇進するも明治5年(1872)官を辞して矢田部良吉らと森有礼に随行してアメリカに留学。明治9年(1876)帰国し29歳で東京開成学校5等教授として有機化学を担当。明治10年(1877)東京開成学校と東京医学校の合併により唯一の日本人東京帝国大学教授となる。明治14年(1881)文学部長。明治17年(1884)「羅馬字会(ローマ字)」を創設、矢田部良吉らと漢字無用論を説く。明治30年(1897)東京帝国大学総長。一方、明治15年(1882)井上哲次郎らと「新体詩抄」を刊行したり、上田万年らと「新体詩歌集」を刊行するなど、新体詩運動にも活躍した。著書:明治13年(1880)「民権弁惑」、明治19年(1886)「演劇改良論私考」、明治23年(1890)「日本絵画の未来」、明治28年(1895)「日本知識道徳史」など多数。明治28年(1895)矢田部良吉、井上哲次郎らと「新体詩抄」を編纂した。明治30年(1897)東京帝国大学総長。明治33年(1900)伊藤博文内閣の文部大臣となるが、内閣更迭のため在職わずか2カ月辞任。初の東京帝国大学名誉医教授となる。53歳。
※ 万歳三唱の祝声の創始者とされている。
外山たか子/外山隆子(とやまたかこ) 明治28年〜大正10年12月9日(1895-1921)
文学者。父、外山正一。母、房子。早くに父を亡くす。佐々木信綱に歌を学ぶ。文才があったが早世する。26歳。著書:「口訳宇治拾遺物物語」を大正7年(1918)に出版。
墓は、谷中霊園乙3号10側。当ブロック中程。西向き。正面「外山氏累代之墓」。正一「覚了院殿厳淨正一大居士」。