佐佐木信綱(ささきのぶつな) 明治5年6月3日〜昭和38年12月2日(1872-1948)
歌人・国文学者・万葉集研究者。号、鈴山(りんざん)・竹柏園・小鈴・健・磯辺千浪。父、佐々木弘綱(長男)。三重県(鈴鹿市)石薬師寺村出身。幼くして和歌を父に学び、明治15年(1882)一家で上京。11歳で「文章作例集」を刊行。以後、高崎正風(たかさきまさかぜ)に師事。明治17年(1884-1888)東京帝国大学古典講習科入学。明治23年(1890)父とともに「日本歌学会書」の刊行に当たるが、明治27年(1894)父弘綱死去に機に遺志を継ぎ、父の創めた「竹柏会」を主宰し、明治31年(1898)歌誌「こゝろの華(のち心の花)」の刊行を続けるなど歌の啓蒙に尽力。明治29年(1896)新編教育唱歌集に「夏はきぬ」(卯の花の 匂う垣根に ほととぎす 早も来なきて・・・)を発表。明治38年(1905)東京大学文学史の講師。また、古典籍の復刻や和歌の研究にも大きな足跡を残した。明治44年(1911)文学博士。大正6年(1917)帝国学士院恩賜賞受賞。昭和12年(1937)第1回文化勲章受章。門下からは川田順、柳原白蓮、五島茂らが出ている。91歳。著書:「日本歌学史」、「万葉集事典」、「和歌史の研究」。共著:「校本万葉集」。歌集:「思草」、「山と水と」など多数。
※ 出身地生家横に佐佐木信綱記念館がある。歌人佐佐木幸綱は信綱の孫。
佐佐木雪子(ささきゆきこ) 明治7年〜昭和23年10月19日(1874-1948)
歌人。父、藤島正健(長女)。東京出身。明治女学校卒業。卒業後、「竹柏会」に入り、博文館の小説雑誌に執筆する。明治29年(1896)佐佐木信綱に嫁す。長男逸人は、母の父藤島正健の養子となる。二男文綱。三男治綱も歌人。長女綱子。二女弘子。三女三枝子。四女富士子。五女道子。墓碑に"刀自"と敬称がついているが、"主婦"という意味もあることから、また、子だくさんであることから、"歌人"と言われるほどの活躍はなかったものと思われる。
※ 幼子のいたつきまたくいえしより あけたる窓の梅さきにけり
墓は、谷中霊園甲8号7側。さくら通りから東へ約30m。正面「佐々木信綱大人/佐々木雪子刀自 墓」とある。墓碑は、門下の海軍主計中将武井大助の筆。明治歌壇に活躍した父佐々木弘綱墓(1828-1891)は隣り。長男藤島逸人墓は、乙8号5側。なお、"佐佐木"とするのが倣いらしいが、墓碑銘は"佐々木"となっている。NETでの検索時には両方試すとよろしかろう。