矢田部良吉(やたべりょうきち)    嘉永4年9月19日〜明治32年8月8日(1851-1899)

    植物学者。父、矢田部卿雲。静岡県伊豆韮山出身。若い時期から中浜万次郎・大鳥圭介らに英語・漢書を学び、横浜で英学を学ぶ。明治2年(1869)開成学校教官。のち外務省文書大使令。明治3年(1870)高橋是清の斡旋で森有礼に従い渡米、明治4年(1871)官を辞してコーネル大学で植物学を学び明治9年(1876)帰国。ただちに開成学校教授となるが、東京大学発足とともに明治10年(1877)東京大学の植物学の初代教授・東京博物館長・小石川植物園初代園長。明治19年(1886)理科大学教授兼教頭。帝国大学評議官。明治20年(1887)東京盲唖学校校長。明治21年(1888)理学博士。日本の植物が外国の植物学者が命名した分類群のどれに該当するのか、それとも未記載なのか判明することは容易ではなかった。そこで、日本独自の分類をしようと明治23年(1890)年10月発行の「植物学雑誌」に、「日本植物の研究は以後欧米植物家を煩わさずして日本の植物学者の手によって解決せん」と宣言し、植物学を体系づけた。また、詩人として明治28年(1895)外山正一、井上哲次郎らと「新体詩抄」を刊行。これは西欧のポエトリイの移入に際し、旧来の漢詩・和歌・俳諧との差異を強調するために「新体ノ詩」と呼称したものだった。この試みは全国的に多くの模倣者を生み出した。ほかに、明治15年(1882)「東洋學藝雜誌」に「羅馬字ヲ以テ日本語ヲ綴ルノ説」を発表し、まずローマ字の綴方を定め、この解説書を作成して、小学校でローマ字教育を行い、ローマ字の普及を図るべきだとローマ字論を主張した。明治31年(1898)東京高等師範学校長となったが、鎌倉由比ヶ浜にて海水浴中に没する。49歳。従四位勲六等瑞宝章。先妻録子(1858-1887)は、医家金沢良斎の娘。後妻順(1869-1959)は、柳田直平の長女。著訳書:「新体詩抄」、「植物通解」、「羅馬字早学び」、「動物学初歩」、「日本植物図解」、「日本植物編」。

墓は、谷中霊園甲11号1側。飛び地のためわかりにくい。金網で囲ってある児童遊園地より北側(日暮里駅北口側)に位置する。大椎の木の前。通路に面する。正面「理学博士矢田部良吉之墓」。「尚今居士」。「矢田部録子之墓」もある。