中村正直(なかむらまさなお) 天保3年5月26日〜明治24年6月7日(1832-1891)
明治初期の教育者。江戸出身。幼名、釧太郎のち敬輔・敬太郎。号、敬宇。父、幕臣。石川梧堂に書を習う。弘化4年(1847)ころ桂川国興に蘭学を学ぶ。のち大木沖益・箕作奎吾・箕作大六(のちの菊地大麓)に英語を学ぶ。また昌平黌(しょうへいこう)に学び、佐藤一斎に従う。安政2年(1855)昌平黌教授となる。文久2年(1862)幕府儒官。慶応2年(1866)外山正一など幕府遣英留学生を引率して渡英。幕府倒壊のため急ぎ帰国。帰国の船の中で、努力出世話を集めたサミュエル・スマイルス著「自助論(Self Help)」を読み感化。維新後、静岡に移り府中学問所教授となる。明治4年(1871)「天はみずから助くるものを助く」で有名な「西国立志編」を出版。また翌年、ミル著の「自由之理(ことわり:On Liberty)」の訳を刊行。明治5年(1872)大蔵省勤務。翌年「同人社」塾を開き、東京大学文学部教授にもなる。文学博士。また明治8年(1875)東京女子師範学校長(御茶ノ水女子大学)を兼ね、訓盲院設立をするなど女子教育・盲唖教育にも尽力。明治6年(1873)「明六社」創立に参画。元老院議官。勅選貴族院議員。学士院会員。その他の著書翻訳本:「敬宇文集」、「西洋品行論」、「西洋童子鑑」など。静岡市大岩本町26-23の冨春院の門前の「尚志の石碑」がある。60歳。夫人は、中村鐵子。
墓は、了ごん寺墓地(谷中霊園隣接)。ぎんなん通りに面する。正面「正四位勲三等文学博士中村正直墓」。「正直日法大居士」。都指定旧跡。菩提寺の文京区大塚の本伝寺にも墓碑あり。