江戸末期の儒学者。岩村藩江戸浜町の下屋敷出身。父、家老佐藤信由(のぶより)(次男)。名、坦(たいら)。字、大道。号、一斎、愛日楼(あいじつろう)、老吾軒など。幼名、信行。通称、幾久蔵。幼い頃から文武に優れ、小笠原流礼法を会得した。34歳で朱子学の宗家である林家の塾長となる。55歳で岩村藩家老となり、「重職心得箇条」「御心得向存意書」を著した。天保12年(1841)幕府の学問所昌平黌(しょうへいこう)の儒官となる。安政元年(1854)日米和親条約締結時に外交文書作成に尽くした。門下生には、佐久間象山(1811-1864)、山田方谷(1805-1877)、渡辺崋山(1793-1841)などがいる。88歳。娘は、河田迪斎の妻、したがって河田煕および河田柳荘の母。長男慎左衛門は、田口卯吉を継ぐ。