河田貫堂(かわだかんどう)/河田熙(かわだひろむ) 天保6年〜明治33年3月11日(1835-1900)
幕吏・儒者・遣英仏使節。名、熙。字、伯緝。通称、貫之助。父、河田興(迪斎)(長男)。母、佐藤一斎(儒学者、幕府の儒員で林家の塾長)の娘。安政6年(1859)家督を相続。文久2年(1862)10月外国奉行支配組頭となる。文久3年(1863)目付(旗本、御家人取締役)となり、横浜港鎖港談判のための遣英仏使節池田長発(正使)・河津祐邦(副使)両外国奉行の監察としてフランスの軍艦に搭乗してフランスに渡るが、逆に開港を痛感し、帰国後開港を提言したが免職となる。のち許され陸軍奉行、慶応3年(1867)開成所頭取。明治元年(1868)目付、明治4年(1871)大目付(諸大名取締役)。徳川16代当主徳川家達が駿河に封ぜられると、これに従って移り、やがて静岡藩少参事となり学政に努める。廃藩後、家達公の家扶をつとめ東京に帰る。明治10年(1877)家達公の洋行に従いイギリスに渡り、明治15年(1882)帰国。以後、徳川家子女教育係となる。66歳。
墓は、天王寺墓地。千人塚前通路を入り、千人塚手前を右に入る。新田俊純墓前。墓碑の裏側は、垣根があり撮影できず。「文粛院寛堂伯緝居士」。