河津祐邦(かわつすけくに)    ?〜慶応4年3月27日(?-1868)

    外国奉行・長崎奉行。江戸出身。河津伊豆守祐邦・河津駿河守祐邦。通称、三郎太郎。「曾我兄弟の仇討ち」で有名な工藤祐経の子孫。安政元年(1854)蝦夷地を巡回。箱館奉行支配調役として箱館奉行の補佐をし、北蝦夷の開拓や五稜郭の築造に尽力。文久2年(1862)江戸に帰り、文久3年(1863)外国奉行となった。幕府の攘夷の方針に沿って横浜を鎖港させようとフランス公使と交渉したり、同年12月横浜鎖港談判使節副使として正使池田長発(いけえだながおき)・河田貫堂らとフランスの軍艦でヨーロッパに出かけたが、交渉に失敗、逆に開国の必要性を感じ、元治元年(1864)帰国後にその旨建議したが免職幽閉となった。許されて関東郡代、勘定奉行並を経て慶応3年(1867)長崎奉行となった。しかし、長崎に着任したその月、幕府は大政奉還をおこなった。さらに慶応4年(1868)正月鳥羽伏見の戦いで幕府軍が大敗したのを知り、長崎奉行を放棄しロシア船アトリン号で長崎を脱出し江戸に戻った。慶応4年(1868)外国副総裁・外国事務総裁などを務める一方維新後の幕府の整理および徳川家護持にあたる。子にフランス学者の河津祐之がいる。

墓は、玉林寺(谷中1-7-15)。墓地入口の階段上、すぐ右側が河津家の墓地。正面「河津祐邦墓」。