河津祐之(かわつすけゆき) 嘉永2年閏4月8日〜明治27年7月12日(1849-1894)
元老院大書記官・洋学者。旧姓、黒沢。幼名、孫四郎。通称、四郎。父、三河藩士黒澤恕太郎。静岡県出身。文久2年(1862)洋書調所で英語に従事。慶応2年(1866)幕府の外国翻訳方となる。一方、湯島の英仏学校で教鞭を執り英仏語を勉強し、「和英対訳辞書」、「西洋易知録」、「西洋英傑伝」などを出版し、語学の天才と言われた。明治2年(1869)開明派の幕臣河津祐邦家の娘婿となり、家督を継いで河津祐之と改名。明治3年(1870)大学南校に出仕。大学少博士・文部少教授・文部中教授を経て編纂助となる。明治5年(1872)5月教育制度調査のためフランスに留学。明治6年(1873)帰国後文部省5等出仕となり、「仏国学制」を翻訳する。明治8年(1875.6-1880)元老院が設けられると大書記官となる。一方、沼間守一の政治結社「嚶鳴社」に参加し自由民権の啓蒙運動をする。また、ボアソナードを援け法典調査起草に参与。一方、外国の法律を研究、明治14年(1881)大阪控訴裁判所検事長・東京高等裁判所詰検事・司法大書記官。明治15年(1882)8月辞職、その後明治18年(1883.1-1884.6)立憲政党新聞社員。中島信行、古沢滋、小室信介、草間時福らと「日本立憲政党新聞」を創刊。明治19年(1886)司法省刑事局長。のち、函館控訴院検事長。明治24年(1891)逓信次官。明治26年(1893)3月辞職。ポアソナードの助手をし、「修身原論」(仏)フランク著・「仏国学制」など多数の翻訳をした。正四位勲四等瑞宝章。45歳。
墓は、玉林寺墓地(谷中1-7-15)。墓地入口階段上、すぐ右側が河津家墓地。右側列の一番右側。正面「総達院殿英倫祐之大居士」。境内に大きな碑がある。