沼間守一(ぬまもりかず)    天保14年12月2日〜明治23年5月17日(1843-1890)

    幕臣・民権論者・新聞人。本名、高梨守一。通称、慎次郎。父、高梨仙太夫(二男)。養父、沼間平六郎。江戸牛込出身。号、蓮翠・不二峰楼主人・弄花生。嘉永2年(1849)沼間平六郎の養子となる。安政6年(1859)養父とともに長崎へ行き、幕府の陸軍伝習生として仏式操練を習う。戻って歩兵差図役頭取方となり、また、横浜ヘボン塾にて英学を修める。明治元年(1868)1月歩兵頭並に進んだ。戊辰戦争が始まると、幕府側につくため伝習隊中の精鋭20余人を率いて江戸を脱走、兄須藤時一郎と共に、会津・庄内二藩に操練を教え、大鳥圭介らと討幕軍と戦うが敗れた。放免ののち、明治2年(1869)7月土佐藩に仕えて兵事を教えた。明治5年(1872)大蔵省に勤め、横浜税関に勤務。のち司法省に移り、明治4年(1871)岩倉使節団に随行し、欧米各国を周遊し言論の自由に触れた。のち民権論を唱え、明治6年(1873)河野敏鎌らと「法律講義会」を設立、明治11年(1878)同志と嚶鳴社(おうめいしゃ)と改称し各地で政談演説をした。この間元老院権大書記官に任じた。明治12年(1879)9月省内の方針に反発し官職を辞す。以来、民間の政治思想鼓吹に努め、「横浜毎日新聞」を買収し「東京横浜毎日新聞」と改名し経営。晩年東京府会議議員・副議長を歴任。明治15年(1882)立憲改進党に参加。また、同年東京府議会議長。48歳。養子は、銀行員沼間敏朗。

沼間敏朗(ぬまとしろう)     明治9年〜昭和36年8月17日(1876-1961)

     銀行員。父、旧幕臣永山敬三(長男)。18歳のとき沼間守一の養子となり、跡を継ぐ。養父沼間守一の経営する「東京横浜毎日新聞」に入社。のち叔父の須藤時一郎のつてで第一銀行に入社。夫人花子は、侍医伊東方成の4女。

墓は、寛永寺第二霊園。徳川綱吉墓裏手の角。石垣沿い。正面「沼間家之墓」。ここからは、徳川綱吉墓が良く見える。守一「◇光院操守一貫大居士」。敏朗「寿光院義岳明敏居士」。