伊東方成(いとうほうせい) 天保5年12月15日〜明治31年5月2日(1834-1898)
明治天皇の御典医。相模原市上溝出身。父、鈴木方策(長男)。号、玄伯。番田の医師の井上篤斉に学び嘉永2年(1849)江戸に出て伊東玄朴の象先堂に入門、のち万延元年(1860)伊東玄朴の養嗣子となり、奥医師見習いとなる。文久元年(1861)30歳のとき幕命で長崎に行き、開設間もない長崎養生所で佐藤尚中・長与専斎らとオランダ軍医ボンベから西洋医学を学ぶ。文久2年(1862)幕府の海外留学生として林研海(松本良順の甥)とともにオランダに留学し、ユトレヒト軍医学校で医学を修め、慶応4年(1868)12月4日に帰国、初めて眼球模型を持ち帰った。同年玄朴から家督を相続し、方成と改名した。明治2年(1869)大学中博士、のち大典医。明治3年(1870)ドイツに派遣され医学を学び明治7年(1874)に帰朝。明治10年(1877)一等侍医。明治20年三度ヨーロッパに派遣された。明治24年(1891)依願免官。同時に宮内省御用掛を命じられ、明治天皇および皇太子宮嘉仁親王(後の大正天皇)に仕えた。明治29年(1896)には宮中顧問官。4女花子は、沼間守一の養子沼間敏朗に嫁す。
墓は、谷中4 天龍院。本堂うら墓地奥へ約50m、左側に見える住宅裏手。神式。伊東玄朴墓近く。「有功院成佑種徳居士」。