林研海(はやしけんかい)/林紀(はやしつな) 天保15年6月16日〜明治15年8月30日(1844-1882)
陸軍軍医総監。本名、林紀。号、研海。幼名、紀太郎。字、子綱。父、幕府奥医師の林洞海(長男)。江戸両国薬研堀出身。6歳で荻野鳳次郎に師事し漢学を学ぶ。13歳で塩谷桐蔭の塾で漢学を学ぶ。文久元年(1861)10月24日安藤対馬守の命により長崎養生所に派遣されオランダ軍医ボンベから西洋医学を学ぶ。文久2年(1862)9月10日の幕府派遣オランダ海軍留学生の随行員として伊東玄伯・伊藤方成・津田真道らと共に直接オランダで医学を学ぶ。3年ハーグで過ごし、デン ヘルダーに移り、当地の海軍病院で医学を研修する。倒幕のため学半ばにして明治元年(1868)12月に伊東玄伯と帰国するも、徳川幕府が既になく一時は静岡藩病院長に就任したが、のち明治政府の陸軍軍医部に出仕。明治4年(1871)8月叔父の松本順の推挙により陸軍1等軍医正となる。明治6年(1873)5月陸軍軍医監。6月に渡欧するも病により明治7年(1874)帰国。明治8年(1875)陸軍本病院副長。明治10年(1877)西南戦争時には征討軍軍医部長。明治12年(1879)松本順の跡を継いで第2代軍医総監となる。同年12月陸軍軍医本部長に就任。明治15年(1882)有栖川宮熾仁親王に従いロシアに行く途中フランスのパリで腎臓炎に気管支炎を併発し急病死した。39歳。なお、母は佐藤泰然の長女(研海は、泰全の外孫)。弟林董(はやしただす:佐藤泰然の実子)は後の西園寺内閣外務大臣。林董の娘の夫は福沢諭吉の息子。妹多津(長女)の夫は榎本武揚。妹貞(二女)の夫は赤松則良(あかまつのりよし)で、その長女登志子は森鴎外の最初の妻。
墓は、谷中霊園 甲8号5側。五重塔跡裏。フランスのモンパルナス墓地に埋葬。谷中のものは形だけか、遺髪だけかも知れない。正面「陸軍軍医総監正五位勲三等林紀墓」。