徳川綱吉(とくがわつなよし)    正保3年1月8日〜宝永6年1月10日(1646-1709)

    五代将軍。在職:1680〜1709。父、3代将軍徳川家光(四男)。幼名、徳松。徳川家綱の弟。正室、鷹司信子(浄光院:1659-1709)。母、側室本庄宗利氏の娘お玉(桂昌院)。将軍となると堀田正俊を大老とし、前代の悪弊を改め、綱紀粛正をし、学問を興隆するなど、初めは善政をする。柳沢吉保が実権を執ると悪政が甚だしくなる。天下の悪法といわれた生類憐み令により「犬公方」と呼ばれた。また、萩原重秀の貨幣改鋳により物価の高騰を招く。元禄時代(1688-1703)に在位し華やかな元禄文化を生んだといえる。宝永6年1月3日当時流行していた麻疹にかかった。そして同月10日午前6時ころ死亡。64才。

墓は、寛永寺第二霊廟。「常憲院殿」。写真右は、国立博物館庭園内にある高さ570cmの五重塔で、綱吉が法隆寺に奉納したもの。「大和国法隆寺元禄元年十二月常憲院徳川綱吉」とある。綱吉の時代には、院号と俗名を併記する習慣はなく、没後に書き加えられたものと思われる。