小室信介(こむろしんすけ)    嘉永5年7月21日〜明治18年8月25日(1852-1885)

    自由民権運動家。父、宮津藩士小笠原忠四郎長縄(二男)。京都宮津市出身。号、案外堂。民撰議院設立建白書に署名した小室信夫の養子。はじめ藩校「礼譲館」に学び、京都で中沼了三に師事。明治5年(1872)小学校教員。明治8年(1875)沢辺正修・小室信介・粟飯原光らの旧士族の子弟が、自由民権教育をさずける道場として「天橋義塾」を建てる。翌年慶応義塾に入る。明治10年(1877)西南戦争が始まり、「天橋義塾」の幹部たちは、西郷党にくみする恐れがあるとして相次いで拘留された。出獄後、明治11年(1878)10月「天橋義塾結社大意」を改正し、「大阪日報」に発表。これ以降、「天橋義塾」は、教育結社に加えて政治結社的性格となり、明治政府の弾圧をさらに受けることになり、明治17年(1884)ついに解散させられた。明治12年(1879)大阪日報に入社。また、小室信夫の長女と結婚。明治15年(1882)言論弾圧により休刊となった「大阪日報」の代替紙として「大阪日報」の社長だった古沢滋らと「日本立憲政党新聞」(のちの毎日新聞)を創刊、社長となるが、半月足らずで発禁処分を受け、すぐに川上音二郎を名ばかりの編集長にして再発行した。明治15年(1882)4月板垣退助が暴漢に襲われた岐阜事件後、岐阜末広座で政談大演説会を開き、このときの信介の演題が「板垣死すとも自由は滅びず」であった。後に、この言葉は独り歩きし板垣退助が死に際に言ったという話にもなった。演題を信介が付けた証拠はないが、信介が作ったものとされている。明治17年(1884)清仏戦争に特派員として中国に赴く。同年井上馨特派全権大使に従い京城に渡る。34歳。著書:「東洋民権百家伝」、「平仮名民権論」、「平仮名国会論」、「東洋民権百家伝」など。

墓は、谷中霊園 乙3号1側。かなり荒れていて墓碑も傾いている。墓標の廻りには略歴が刻まれている。正面「小室信介墓」。