小室信夫(こむろのぶお/しのぶ) 天保10年9月30日〜明治31年6月5日(1839-1898)
実業家。徳島藩士。徳島岩滝出身。養父、自由民権運動家小室信介(1852-1885)。文久3年(1863)2月22日勤王志士中島錫胤らと京都等持院にあった室町幕府初代足利尊氏から3代の木像を梟首(きょうす)し、賀茂川原に晒し、熊本藩に逃避した。元冶元年(1864)禁門の変後、桂小五郎(木戸孝允)と三条実美の密使として徳島藩に赴いたが、梟首事件を自首して徳島藩に幽閉される。明治元年(1968)正月釈放後は、蜂須賀茂韶の側近、同年10月徴士・権弁事、12月岩鼻県知事(翌2年7月権知事)、明治3年(1870)2月稲田騒動の鎮静のため徳島藩大知事となる。明治4年(1871)8月少議官。明治5年(1872)蜂須賀茂韶とともに欧米視察。帰朝後官職についたがすぐに辞め、明治7年(1874)板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣・由利公正・古沢滋らとの連名で、左院(当時の立法機関)に民撰議院設立建白書を提出した一人となる。明治16年(1883)梟首事件で世話になった品川弥二郎・渋沢栄一らと共同運輸会社(日本郵船会社)の設立をするなど実業家として活躍。明治24年(1891)貴族院議員となる。60歳。養子に小室信介がいる。
墓は、天王寺墓地。ぎんなん横丁に面する。正面「小室信夫之墓」。夫人貞子(大正5年3月16日)の墓は、信夫の隣りにあるが、妾を含む家族(5女真理など)の墓は、谷中霊園 乙5号4側にある。