古沢滋(ふるさわうろう/ふるさわしげる)    弘化4年11月11日〜明治44年12月24日(1847-1911)

    自由民権運動家・政治家・官僚。幼名、古沢迂郎(うろう)。字、子雨。号、介堂。別名、立花光臣。父、高知藩士古澤義正(南洋)(次男)。高知出身。村校「名教館」助教。文久2年(1862)上洛して尊王討幕活動に挺身するが、父兄と共に収監される。慶応3年(1867)放免となり、岡本健三郎に誘われ、明治2年(1869)上京し明治政府大蔵省に勤め、同年石巻県10等出仕。明治3年(1870)太政官命により小室信夫と英国留学。ロンドンよりサンフランシスコを経由し、太平洋を渡って明治6年(1873)帰国。明治7年(1874)民撰議院設立建白書を起草、板垣退助・後藤象二郎らと愛国公党を結成して天賦民権論に基づき自由民権運動を進め、立志社・愛国社結成に尽力。明治8年(1875)元老院権書記官。ついで、中山信彬・小森沢長政・牟田口通照らと2等法制官、正院法制局勤務。明治10年(1877)太政官権大書記官。「大阪日報」社長、「自由新聞」主筆となる。自由党解党後、外務・内務・農商務各省の書記官・参事官を歴任。明治23年(1890)逓信省郵務局長、小包郵便制度を発案し功績をあげる。明治24年(1891)郵便為替貯金局長兼務。明治25年(1892)小包郵便開始。明治26年(1893)勲四等瑞宝章、奈良県知事。明治28年(1895)奈良帝室博物館長。旭日小綬章。明治29年(1896)石川県知事。明治31年(1898)従三位勲三等瑞宝章。明治32年(1899)山口県知事。明治37年(1904)貴族院議員に勅選される。錦鶏間祗候。65歳。

墓は、谷中霊園乙2号9側。正面「古沢滋之墓/室満津子之墓」。隣に父、古沢南洋(1810-1876)墓がある。