岡本健三郎(おかもとけんざぶろう) 天保13年10月13日〜明治18年12月26日(1842-1885)
坂本竜馬のボディーガード・民権論者・大蔵大丞。父、土佐藩士岡本亀七。土佐国潮江村出身。下横目の下級身分であるが、坂本龍馬に私淑し、慶応3年(1867)10月福井に同行し、由利公正と会う。慶応3年(1867)11月15日京都河原町蛸薬師の醤油商近江屋で坂本龍馬は刺客に襲われ暗殺された。この日、竜馬は近江屋の二階で中岡慎太郎と語り合っていた。ほかに岡本健三郎、菊屋峰吉、藤吉の5名がいたが、菊屋峰吉に軍鶏(しゃも肉)を買いに行かせ、護衛役の岡本健三郎も同時にその場を去った。その後刺客が来て暗殺されたという。犯人は今もって不明だが新選組隊士7人だといわれている。維新後、自由民権家・大阪府治水司・太政官権判事・大津県判事。明治5年(1872)ころ大蔵大丞、博覧会用務を以てオーストラリアに出張。明治6年(1873)征韓論で辞職。明治7年(1874)愛国公党の板垣退助・後藤象二郎・江藤新平・副島種臣・由利公正・古沢滋・小室信夫・奥宮忠次ら同士8名と連署、民選議院設立の建白書を左院に提出。明治10年(1877)西南の役に政府転覆「立志社」挙兵計画に参画し、外国商船ローサーより小銃800丁の買い入れを企て、禁固2年に処せられる。明治14年(1881)自由党の創立に尽力。のち実業界に転身し、共同運輸会社と三菱会社との確執を調停、その併合を斡旋し、日本郵船会社創立委員・理事。従五位。44歳。
墓は、谷中霊園乙11号13側。正面「岡本建三郎/室今野金子 墓」。