川上音二郎(かわかみおとじろう) 文久4年1月1日〜明治44年11月11日(1864-1911)
明治の政治家で新派俳優。本名、川上音吉。父、黒田藩御用商人。博多中対馬小路出身。維新で家業が没落、継母とも折り合いが悪く家出。14歳で上京し裁判所の給仕、新聞記者など職を転々とした後、明治10年代末に自由民権運動に関わり薩長藩閥政府を攻撃し、検挙投獄数十回にもなった。明治20年(1887)川上音二郎の芸名で京都で歌舞伎俳優に加わり、ついで大阪で落語家桂文之助について落語も修業し、寄席でも自由民権思想を盛り込んだ自作の「オッペケーペー節」を歌って人気者となった。明治24年(1891)大阪堺で書生芝居で成功し、同年東京の中村座で公演でも人気を得た。明治26年(1893)パリに行き帰国後西洋意匠を採用した翻案劇「意外」で成功した。明治34年(1901-1902)再度ヨーロッパ興行に出る。明治36年(1903)からは、[オセロ」、「ハムレット」など翻訳劇を公演し演劇界に新しい潮流を作った。妻川上貞奴も日本最初の女優として有名。明治40年(1907)以降は興行師に専心し大阪に純和風劇場の「帝国座」を建てた。
オッペケペー節の一部を下記に紹介する。
♪権利幸福嫌いな人に、自由湯をぱ飲ましたい。(略)。マント、ズポンに人力車、いきな束髪ポンネツト、貴女や紳士のいでたちで、表面の飾りに好いけれど、政治の思想が欠乏だ。天地の真理が分からない。心に自由の種を蒔け。(略)。米価騰貴の今日に、細民困窮顧みず。オツペケペ、目深に被つれ高帽子、金の指輪、金時計、権門貴顕に膝を曲げ、芸者太鼓に金を蒔き、内に米を倉に積み、同胞兄弟見殺しか、幾ら慈悲なき慾心も、余り非道な薄情な。但しに冥土のお土産か、地獄で閻魔(えんま)に面会し、賄賂(わいろ)使うて極楽へ行けようか、行けないよ。
碑は、谷中霊園乙8号14側。谷中霊園にある円筒型の台座の上には、妻川上貞奴(1872-1946)が建てた音二郎の像(碑)があったが、戦時中の金属供出で撤去された。最近プレートが発見され平成18年8月20日に取り付けられた。墓は、九州博多の承天寺にある。また、港区高輪二丁目 泉岳寺 という資料もある。なお、碑文は、山岸荷葉の書。銅像の写真を見ると、フロックコートを纏い一点を見据えている姿は、どうみてもオッペケペ節を歌った人とは思えない。