河田柳荘(かわだりゅうそう)/河田 羆(かわだたけし)     天保13年9月7日〜大正9年1月4日(1842-1920)

    地理学者・「大日本地名辞書」および「大日本国誌」編纂のメンバー。名、羆(たけし)。父、河田迪斎(三男/四男)。河田貫堂(熙)の弟。母は、佐藤一斎の娘。田口卯吉は、母方の従妹町子の子。甥は河田烈。安政2年(1855)林家の家塾に入門。文久元年(1861)1月昌平坂学問所の教授方出役。同年12月外国奉行支配調役並。文久3年(1863)新藤家の養子となる。慶応4年(1868)維新により免職となり駿府の静岡学問所の三等教授となる。明治5年(1872)廃校により免職。間もなく内務省地理局地誌課勤務。このときの部下に、地理学者河井庫太郎がいる。明治10年(1877)新藤家と離縁し河田姓に戻る。渡邊 中・秦政治郎らと共に「大日本国誌」の編纂に大きく関与している。しかし、明治23年(1890)研究資金欲しさに河合庫太郎が詐欺事件を起こす。依田学海のメモには、「庫太郎はこの外に内務地理局の河田羆と連印して平沼より三千金を借用したりとぞ」と記している。この責任が河田柳荘にも及びクビになったため返済の手立てがなく、兄の河田貫堂がその金を償う。詐欺事件の具体的な内容は明らかではないが、どうも本郷4丁目の土井利與の土地に関することのようである。そして数年表を歩けない状態となる。また、兄貫堂の信頼も失ってしまい、経済的にも打撃となった。のち、明治26年(1893)史誌編纂掛が廃止され、非職となる。 明治27年(1894)ころ岩崎弥太郎の援助で「静嘉堂文庫」の整理に従事する。明治29年(1896)以降、「支那彊域沿革図」、「支那彊域沿革略説」、「沿革考證 日本読史地図」、「沿革考證 日本読史地図図説」、「日俄戦記」、「大磯誌」を刊行する。この間明治33年(1900-1905)田口卯吉の依頼により、「東京経済雑誌」に連載する。大正9年(1920)脳出血で本郷の自宅で没する。77歳。

※ 静嘉堂文庫:三菱創設者の岩崎弥太郎の弟岩崎弥之助が明治25年(1892)頃自邸内に創設した文庫「静嘉堂」を起源としており、自分のコレクションを収蔵。後継の子岩崎小弥太が世田谷区に「静嘉堂文庫」を建設。のち、財団法人として岩崎家と離すが、戦後に財政難となり運営を国立図書館の傘下とする。のち、三菱の援助で独立し私立図書館となる。公開は、研究者を対象としており、一般には公開していない。

墓は、天王寺墓地。朝倉文夫墓前通路に入り、左側、若目田家墓の隣り(手前)。梅浦精一墓の背中側。正面「柳荘河田先生之墓」。