依田学海(よだがっかい)    天保4年11月24日〜明治42年12月27日(1833-1909)

    劇作家。幼名、幸造・信造。名、百川。通称、七郎・右衛門。字、朝宗。号、学海・柳蔭。父、佐倉藩士依田貞剛(次男)。依田秋圃の叔父。兄は、佐倉藩執政依田柴浦。江戸八丁堀出身。藩校成徳書院の藤森天山(弘庵)らに師事、経史を学ぶ。のち教授をする。のち帰藩し中小姓、やがて儒官・代官・江戸留守居役。詩文をよくした。幕末では尊王派であり京都で「勤皇開港論」を述べ活動した。明治維新後、佐倉藩権大参事・新政府の集議院幹事・木戸参議下で地方官会議書記官などを歴任。明治14年(1881)文部省に勤務し漢文の教科書づくりなどをおこなう。明治18年(1885)辞職後著述に専念し、福地桜痴らと劇界に対して意見を述べ、明治19年(1886)演劇改良会をおこし、運動の促進者として名を残した。歌舞伎界の九代目団十郎・五代目菊五郎ら改良指導や、演劇に理解の少ない政府高官を啓蒙するなどした。川上音二郎のために戯曲「拾遺後日連枝楠」を書いたこともある。また、本宅で「学海日録」を書き、妾宅で漢文の日記を同時に書いたとされ、妾宅に居た頃森鴎外に漢文を教えたとされる。77歳。著書:「譚海」、「談叢」、「学海日録」。

※ 依田柴浦の3女孝子は、河鰭斎の弟の河鰭敦の妻。

※ 夫人淑は、軍艦の設計をした佐波一郎の長姉。

 
墓は、谷中霊園乙3号6側。墓標周りに履歴が刻まれている。正面「学海居士埋骨処」。墓誌なし。