田口卯吉(たぐちうきち)    安政2年4月29日〜明治38年4月13日(1855-1905)

    経済学者。名、鉉(みつ)。通称、卯吉。字、子玉。号、鼎軒。江戸目白台出身。父、西山家から養子に入った幕府御家人田口樫郎、母は佐藤一斎の外孫町子。5歳で父を亡くし、母の教育を受ける。12歳で幕府に徒士見習い勤番として出仕。大叔父佐藤立軒が鼎軒(ていけん)の号を与え元服を祝す。幕府瓦解後は一時横浜で飯岡金次の商売に従事、外人について英語を学んだが、新政府が樹立されると徳川家とともに静岡沼津に移って勝海舟の沼津兵学校に学ぶ。明治4年(1871)上京して大学予備門に入り、尺振八(せきしんぱち)の共立学舎で医学を志すが授業への不満から中退して、明治5年(1872)大蔵省翻訳局に入って洋書翻訳にあたったことから経済学を学び始める。明治7年(1874)紙幣寮に出仕、傍ら報知・横浜毎日新聞に寄稿。明治10年(1877)沼間守一らと「嚶鳴社」を起こし、「共存同衆」にも参加し、民権運動の先駆けとなる。「日本開化小史」の出版で自由主義を基調に、政府の保護貿易を批判し著名となっていった。明治11年(1878)「自由貿易自由経済論」を著わし、官を辞し、明治12年(1879)に我が国初の週刊誌「東京経済雑誌」を創刊し、自由主義経済論を主張、犬養木堂の「東海経済新聞」の国家主義・保護貿易説と論争。また、特権政治と独占経済の打破にも尽力。明治15年(1882)自由党の機関紙「自由新聞」の客員となり経済社説を担当。明治21年(1888)小田原電気鉄道の取締役となり鉄道敷設に尽力また鉱山試掘など実業界で活躍。さらに政界でも、本郷区会議員・東京府会議員、明治27年(1894)衆議院議員を歴任した。明治32年(1899)法学博士。また、「大日本人名辞典」・「日本社会事彙」など各種辞書の基礎を築く。本郷西片の自宅で没する。51歳。著作:「自由貿易日本経済論」、「日本開化小史」、「日本開化之性質」、「日本之意匠及情交」、「楽天論」、「鼎軒田口卯吉全集」。また「群書類従」、「国史大系」など史書を編纂、歴史に関する著書も多い。姉(異父)は、木村鐙子。夫人は、山岡千代。千代が早世のため、妹の鶴が後妻となる。その妹理起子は、東京市助役河田烋に嫁ぐ。

墓は、谷中霊園乙7号6側。花重と管理事務所の間の茶屋前の舗装通路の左側。正面「田口氏之墓」。