木村熊二(きむらくまじ) 弘化2年1月25日〜昭和2年2月28日(1845-1927)
幕臣・キリスト教宣教師・教育者。京都御池出身。父、出石藩の儒臣桜井石門(次男)。桜井勉の弟。8歳で江戸に遊学、中村正直・聖堂都講木村琶山に学び、安政元年(1854)木村琶山の養子となり、中村敬宇・河田廸斎に学ぶ。安政3年(1856)幕府歩兵局に出仕。文久3年(1863)田口鐙子と結婚。昌平校で佐藤一斎に儒学を学ぶ。征長軍に従い京都取締役となり情報活動をする。勝海舟のもとで働いた後、官軍の追及を避けるため勝海舟の勧めで「佐倉定吉」の偽名で明治2年〜明治15年(1869-1882)にグレートパブリック号に乗り、森有礼に随行し渡米(随行員には、外山正一・名和道一ら)、アメリカ留学、生理学、病理学、神学を学び、ラットガルス大学卒業、ミッション派遣宣教師の資格を修得。明治5年(1872)キリスト教の洗礼を受ける。明治15年(1882)神学博士およびニューヨーク大学より医学博士の称号を授与される。帰国後、下谷谷中初音町に住み、下谷教会牧師を務める。明治17年(1884)には本郷西片町に移る。明治18年(1885)植村正久・田口卯吉・島田三郎・巌本善治・妻鐙子と共に東京巣鴨に「明治女学校」を創立し校長を務める。明治19年(1886)鐙子の急死に遭い校長を巌本善治に譲る。明治21年(1888)「頌栄女学校」校長、共立学校教師となり島崎藤村・三宅克己らを教える。台町教会牧師。明治22年(1889)島崎藤村に洗礼する。明治25年(1892)小山太郎らの要請で東京から小諸の別荘「水明楼」(現存)に移り住み翌年「小諸義塾」を開き、明治26年11月〜明治39年3月(1893-1906)まで塾長として青年教育に尽くす。明治29年(1896)東儀隆子と再婚(実際は再々婚)。ここには、島崎藤村を教師として招いた。藤村は、ここで「破戒」を書いた。
※ 明治女学校では、巌本が校長となってから、島崎藤村・星野天和・北村透谷・戸川秋骨・馬場孤蝶などが教壇にたち、相馬黒光・羽仁とも子・上野弥生子などが学んだ。
木村鐙子(きむらとうこ) 嘉永元年6月26日〜明治19年8月18日(1848-1886)
明治期の女流教育者。女流教育者。父、幕臣田口耕三(長女)。母、まち。経済学者田口卯吉の姉(異父)。曾祖父佐藤一斎により「鐙」と命名された。幼くして父を亡くし、継父樫郎により四書五経と薙刀を学ぶ。犬塚黒兵衛の娘篠子に馬術を学ぶ。慶応元年(1865)5月17歳で木村熊二に嫁すが、維新時にことで幕臣の熊二は東奔西走で留守がちのため、実家の祖母と母に仕え、弟卯吉をいたわり養い、苦しい生活をした。のち、田口家は横浜に移転したが、横浜根岸に母と子裕吉と住んだ。明治3年(1870)熊二が渡米した後、卯吉が上京して大蔵省に出仕し、両家家族を集め、鐙子に家事を託し、面倒をみることとなった。明治12年(1879)卯吉が「経済雑誌社」を創立するに当たり、その会計事務を担当した。また、卯吉の「日本開化史」著述に当たっては、資料収集に尽力した。また、「大日本人名辞書」編纂時にも多大な尽力をした。明治15年(1882)帰国した熊二は伝道師の道を選び、その影響を受けフルベッキより受洗。明治18年(1885)渡辺昇・石川暎作らの企てに賛同して幹事となる。また、熊二・巌本善治らが「明治女学校」を創立すると自ら取締となり事務を管理し、教員・生徒の面倒をみた。週に5日は寄宿舎に寝起きし、生徒を指導したという。コレラのため急逝。39歳。
墓は、谷中霊園 乙8号5側。舗装通路寄り。墓碑は西洋式に寝た形になっているが、倒れているわけではない。正面「木村熊二 木村鐙子/之墓」。子の木村裕吉(明治32年5月12日没)墓が隣接してある。後妻隆子・二男信児・信児の妻・四男・四男の妻・四男の長男を記した墓誌がある。