石川暎作(いしかわえいさく)    安政5年4月〜明治19年4月(1858-1886)

    言論・教育・社会改革運動家。父、石川市十郎(三男)。福島県西会津町野沢出身。幼児期に山口千代作・五十嵐春甫らと渡辺思斎の家塾に学ぶ。ついで、英学を修める。明治6年(1873)横浜の高島学校に入学し、英学を1年間修める。明治7年(1874)東京に出て東京外国語学校・化成舎に学ぶ。明治8年(1875)福沢諭吉の慶応義塾に入門。一時、千葉県の小学校教授となるが、のち尺振八の共立学舎で数学を教える。明治12年(1879)桜鳴舎に入り、弁論家として有名となる。共立学舎閉鎖後、澤愛山・金谷昭らと大蔵省に入り、銀行局御用掛となる。明治15年(1882)罹病し官を辞し、田口卯吉の東京経済雑誌記者となる。田口卯吉の主催し、A href="shibusawaEiichi.htm" TARGET="_BLANK">渋沢栄一が後援する東京経済学講習会の出版委員として、同年(1882)4月イギリスの経済学者アダム・スミスが書いた「国富論」をわが国で初めて日本語に翻訳した。翻訳は「東京経済学講習会講義禄」に載せられ明治21年(1888)まで続いたが、途中で石川が肺患のため病死したため、嵯峨正作が引き継いだ。渡部鼎(1858-1932)とともに女性の洋髪化をすすめるなど、黎明期日本の教育と文化にも貢献した。28歳。

碑は、甲2号8側。正面「石川暎作君碑」。碑文は田口卯吉撰。郷里の野沢にも墓と碑がある。