梅浦精一(うめうらせいいち)    嘉永5年2月13日〜明治45年3月17日(1852-1912)

    石川島造船所の専務取締役。越後長岡出身。明治5年(1872)大蔵省出仕。明治8年内務省に移る。明治9年(1876)3月、多田元吉は石河正竜、通訳の梅浦精一とともにインド紅茶生産地ダージリンとアッサムを視察し、コロネルモニイから茶樹耕種培養法を学んだ。明治11年帰国。明治14年以降実業界に転じ、石川島造船所の専務取締役となる。明治19年(1886)7月26日電話会社創立の発起人総代として逓信大臣、榎本武揚に上申書を出願。渋沢栄一も発起人の一人。翌年5月理学士沢井廉を電話事業調査のため米国に留学させた。61歳。著書・共訳:「銀行簿記精法」、「西洋勧善夜話」、「英語掌中に熱字箋」、「文部省蔵版百科全書織工編」、「茶木栽培製法説略」。

墓は、天王寺墓地。甲9号18側横を入り、右側。正面「梅浦家之墓」。碑は、渋沢栄一題額。「真證院殿釈力精居士」。