沢井廉(さわいれん)/沢井康之(さわいやすゆき)     慶応元年1月16日〜明治27年11月28日(1865-1894)

    明治期の電気学者・理学博士。東京電話交換局長。父、岡山藩士沢井修之(近知)(長男)。京都出身。幼時より学を好み、9歳にして洋書を読む。17歳のとき帝国大学理科大学に入り理学を専修。苦学5年で理学士となる。欧米諸国を暦遊し電気について研究する。病気のため帰国し、平癒後、逓信省技師補、東京電話交換局長となる。また、大学工科講師。明治17年(1884)重力試験のため小笠原諸島に渡る。明治19年(1886)東京大学大学院にすすむ。明治19年(1886)3月21日帝国大学の広田理太郎・和田義睦・同理科大学の田中館愛橘らと共に4名が「自転車会」を設立。明治20年(1887)梅浦精一渋沢栄一らの電話会社創立の為の電話事業を調査するため、米国に留学し、エジソンの助手を勤め蓄音機の発明を助ける。明治26年(1883)1月逓信省管下における最初の専門雑誌「電信協会誌」の編集委員に浅野応輔・湯川寛吉と3名がなる。30歳。

墓は、谷中霊園 乙10号7側。正面「従七位理学士沢井廉之墓」。墓碑周りに市河萬庵(三兼)書の略歴あり。父、沢井近知(?-1914.3.20)墓もある。