市河遂庵(いちかわすいあん) 文化元年〜明治18年9月27日(1804-1885)
幕末・明治の書家。名、三治。字、士成。通称、三治郎。別号、三山居士・靖所。父、加賀大聖寺藩の藩医士横井百翁(二男)。市川米庵の養子市河恭斎没後、市河米庵の養子となる。米庵に学び、詩書を得意とした。子に市河得庵がいる。得庵は加賀前田家第13代藩主斉泰に仕えているので、遂庵も大聖寺藩前田家に仕えたと思われる。正面「市河遂庵先生之墓」。「友竹院遂庵日清居士」。
※ 逐(ちく)庵とする資料を見受けるが、文字が違う。
市河万庵(いちかわまんあん)/市河三兼(いちかわさんけん) 天保9年〜明治40年11月10日(1838-1907)
書家。名、三兼。字、叔並。通称、昇六。号、萬庵。父、市河米庵(末子)。東京出身。幕府に仕え江川太郎左衛門・高島秋帆(高島四郎太夫)に洋式砲術を学び鉄砲方となる。また、同時に海保酔茗に師事し篆刻を学ぶ。明治3年(1870)ロンドンで印刷する我が国の紙幣の文字を担当。父の業を継いで篆書・隷書を得意とし、更に篆刻・弾琴・点茶・挿花も好んだ。下谷池之端で書道塾を開く。門人狩野金五郎を養子にし、与力の株を譲る。のち下谷練堀町に移り、維新後は大蔵省に24年間勤め明治3年(1870)にロンドンで印刷した日本の紙幣の文字を書いた書家として知られる。著書:「金洞余韻」、「吟杖自在巻」、「百絶百律百古」。正面「萬庵翁墓碑銘」。「大悟院実相古道居士」。
市河三喜(いちかわさんき) 明治19年2月18日〜昭和45年3月17日(1886-1970)
英語学者。父、市河万庵(次男)。東京出身。明治39年(1909)東京帝国大学言語学科に入学し英語学を専攻し、大学院まで進む。大正元年(1912)在学中に「英文法研究」を著わす。同年文部省留学生としてオックスフォード大学などで3年間在外研究を行い、大正5年(1916)帰国。すぐに東大助教授、大正9年(1920)教授となる。昭和4年(1929)日本英文学会創設。昭和6年(1931)日本シェークスピア協会設立。昭和12年(1937)財団法人語学教育研究所の顧問・理事長・所長を通算30年以上にわたり歴任。昭和14年(1939)学士院会員。昭和21年(1946)東大を定年退官。昭和34年(1959)文化功労者。昭和35年(1960)文部省の英語教育改善協議会会長。83歳。妻の市河晴子の父は東京帝国大学法科大学長を務めた男爵の穂積陳重。晴子の母の穂積歌子は、渋沢栄一の長女。妻晴子はその三女として生まれる。したがって市河晴子は、渋沢栄一の孫にあたる。憲法学者の穂積八束は叔父。義兄で穂積陳重の長男は穂積重遠。著書:「ラテン・ギリシャ語初歩」、「聖書の研究」、「英語発音辞典」、英語学入門書「英語学−研究と文献」など。正面「市河世儒傳芳之碑」。「友林院殿清庵日喜大居士」。本墓は多摩霊園にある。
墓は、本行寺墓地(西日暮里3-1-3)。本堂裏から8本目の通路を右に入り、3本目を左に行った左側。
市河万庵墓
市河三喜碑。「市河世儒傳芳之碑」。