箕作佳吉(みつくりかきち) 安政4年12月1日〜明治42年9月17日(1857-1909)
海洋生物学者、真珠養殖の御木本幸吉の先生。父、津山藩医箕作秋坪(三男)。江戸津山藩邸で生まれる。明治3年(1970)慶応義塾に入り、英語を修得。明治5年(1872)大学南校に転校する。明治6年(1873)15歳で英語教授エドワードハリスに伴われ渡米、ハートフォード中学からレンサラー工科大学で土木工学を学び、のちエール大学ジョンホプキンズ大学に転じ動物学を学ぶ。明治13年(1880)東京帝国大学理学大学で日本人として初の動物学の教授になることを乞われ、英国ケンブリッジ大学でバルフォアに短期間学び、欧州を回って明治14年(1881)帰国。東京大学動物学教授を務め明治21年(1888)理学博士。明治19年(1886)東京大学三崎臨海実験所を創設。明治34年(1901)東京帝国大学理科大学学長となる。牡蠣養殖や御木本の真珠養殖に助言するなどわが国水産事業にも貢献した。女子教育を重視し、東京高等女学校の校長も務める。明治37年(1904)万国学術会議に北里柴三郎と参加。脳溢血で没する。51歳。母は、箕作阮甫(墓は、多摩霊園)の二女常。兄に洋学者箕作奎吾と数学者菊池大麓がいる。弟に理学博士・文学博士の箕作元八がいる。妹は、坪井直子。
※ 金魚の「出目金」の命名者ともいわれる。
箕作新六(みつくりしんろく) 明治26年〜昭和28年9月1日(1893-1953)
理学博士・東北帝国大学教授。父、箕作佳吉(五男)。東京出身。大正7年(1918)南満州鉄道に入社、化学工業所長。東北帝国大学教授(法科学長)。東京帝国大学教授。昭和4年(1929)理学博士。昭和9年(1934)南満州鉄道に再入社、撫順炭鉱化学工業所長。日本カーバイト顧問。日本揮発油研究所長。夫人の寿賀子は、東京帝国大学法科学長穂積八束(ほずみやつか:1860-1912)の三女。59歳。著書:「理論化学」、「理論化学講義」、「鉄鋼 小学科学絵本」、「化學平衡論」など。
墓は、谷中霊園 乙5号2側(低地側飛び地)。箕作秋坪墓の向かって左側に並ぶ。正面「箕作家之墓」。