古谷簡一(ふるやかんいち)    天保11年8月28日〜明治8年7月26日(1840-1875)

    樺太(サハリン)を日露両属と交渉した人・箱館奉行定役出役。幼名、藤吉。父、古谷岩之(三男)。地理局職員田原秀毅の異父弟。東京麻布出身。幼少の頃より樺太など北地について興味を持つ。昌平校に学び、後の駐ロシア公使の榎本釜次郎(武揚)と交流があり、北地について詳しい榎本に影響されたらしい。安政5年(1858)古谷栄の養子、同年箱館火得奉行。箱館の吏として奉行小出大和守の信頼を得て、モスクワに随行し樺太会談を行い、樺太を日露両属とする。慶応元年(1865)10月イギリス人数人が、アイヌの墳墓を盗掘し骸骨12・3人分を運び出したという事件があり、同年10月26日から数回に渡り在箱館イギリス領事館の総領事ヴァイスと博物学者ホワイトリーとを相手に交渉にあたったメンバーの一人。明治元年(1868)松岡林吉・上村井善平らと出納権判事兼皇学所掛。明治5年(1872)若山儀一・石渡貞男と租税権助。明治7年(1874)ころ勧業助。正六位。36歳。

墓は、谷中霊園 甲4号8側。ぎんなん通りに面する。正面「故正六位古谷簡一君之墓表」。