原田豊吉(はらだとよきち)    万延元年11月21日〜明治27年12月2日(1860-1894)

    明治期の地質学者。父、原田一道(長男)。江戸出身。父が、洋学者であったので幼児期よりフランス語を学ぶ。明治3年(1870)10歳で大阪開成所に入り、のち東京外国語学校のフランス語科に転校する。明治7年(1874)15歳で父と共にドイツに渡り、ハンブルク近郊のシュターデ中学に入学。3年間基礎教育を受けたのち、ザクセンのフライベルク鉱山大学に入る。明治13年(1880)に卒業し、ハイデルベルク大学に移り、のちミュンヘン大学に転じる。明治15年(1882)学位を修得すると、オーストリアのウィーンの国立地質調査所に勤務。明治16年(1884)4月に帰国。11月農商務省権少書記官、地質調査所に勤務。明治17年(1884)東京帝国大学地質学の最初の日本人教授となる。明治18年(1885)地質調査所は、地質局となり、次長に進む。明治23年(1890)に300万分の1の日本列島地質図(地体構造図)を発行。「鹿塩片麻岩」の命名者でもある。肺結核に罹り、ツベルクリン発明のニュースを知り、明治24年(1891)ドイツに赴き、コッホの治療を受けて明治25年(1892)6月に帰国するも、再発し没する。35歳。子に西園寺公望の秘書だった原田熊雄がいる。著書:「日本地質構造論」、「日本群島」。

墓は、天王寺墓地。原田一道墓の右隣り。墓標は朽ちて右半分が読めないが、かろうじて「吉」の字が読める。碑もある。「理城院殿学山宜豊大居士」。