原田一道 (はらだいちどう)    天保元年8月21日(1830)〜明治43年12月10日(1910)

    明治期の陸軍少将・男爵。名、駒之進、のち敬策・吾一。父、備中国鴨方藩医原田硯斎種春(長男)。岡山出身。鴨方藩士。幼時、山田方谷(1805-1877)に師事し、三島中洲(1830-1919)とともに経書を学び、のち豊後・日田の広瀬淡窓(1782-1856)に師事した。その後、江戸に出て伊東玄朴に師事して蘭学を修め、西洋兵法特に砲術を研究した。安政3年(1856)蕃書調書取調出役教授手伝・海陸軍兵書取調出役。文久3年(1863)32歳のとき岩倉使節団メンバー横浜港談判使節藩主池田筑後守長発に随行してフランスに行き、またオランダの兵学校に入学した。慶応2年(1866)帰国して鴨方藩(岡山支藩)に勤務した。のち江戸に出て西周(にしあまね:1829-1897)、津田真道神田孝平らと洋学を学んだ。維新後は、明治2(1869)年軍務局権判事となり、以後、明治4年(1871)兵学校頭・一等法制官・砲兵会議議長・太政官大書記官などを歴任。明治12年(1879)砲兵局長。明治14年(1881)陸軍少将に進み、東京砲兵工廠長に補され、明治19年(1886)元老院議官。明治23年(1890)貴族院議員となった。明治33年(1900)華族に列し男爵となり、この年に退役する。神奈川県国府津町で没する。81歳。著名な地質学者原田豊吉は長男。洋画家原田直次郎は次男。西園寺公望の秘書を務め「西園寺公と政局」(または「原田日記」)を残した男爵原田熊雄は孫。

墓は、谷中天王寺墓地。朝倉文夫墓の裏手。原田豊吉墓は右隣にある。碑は左隣にある。正面「正二位勲一等男爵原田一道墓」。「玄竜院殿種徳一道大居士」。