長谷川芳之助(はせがわよしのすけ) 安政2年12月15日〜明治45年年8月12日(1855-1912)
衆議院議員・工学博士。父、肥前唐津藩士で一刀流の使い手の長谷川久徴(長男)。唐津城内で生まれる。幼少より父から数学を習い、蘭学を佐藤興造に習う。また、13歳のとき父と大阪に出て大阪洋学校に入り、英語を何礼之(がよしゆき)に学ぶ。このときの級友として豊川良平・日下義男らがいる。明治2年(1869)16歳で大阪開成学校助教となる。明治5年(1872)東京の開成校(大学南校)に移り、理化学を研究。明治8年(1875)アメリカ コロンビア大学で鉱山学を修める。また、独フライブルク大学で製鉄業を研究。明治13年(1880)岩崎弥太郎の招きで三菱会社に入る。高島炭鉱・吉岡鉄鉱に勤務。のち本社の鉱山部長。工学博士。のち、政府の鉄鉱業への政策を不満とし明治26年(1893)退社。明治29年(1896)唐津に帰り、鉱山業を営業。明治煉瓦会社取締役。明治35年(1902)鳥取県から衆議院議員となる。国家主義を主張し活動。日清戦争では、捕鯨船で水雷使用を提案。日露戦争では対露同志会を創設。また、対韓同志会を設立。晩年各同志会を合併し太平洋会を組織。政府の外交政策を批判する。俳句・囲碁・川柳を好む。58歳。夫人は、久保田政周の姉なか。
長谷川久一(はせがわきゅういち) 明治17年〜昭和20年8月25日(1884-1945)
東京府知事・県知事。父、長谷川芳之助(長男)。東京出身。明治40年(1907)より三重県・千葉県各警察部長、警視庁第2部長、同保安部長、岐阜県内務部長、内務監察官、土木局長。石川県・和歌山県・長崎県・静岡県の各県知事。東京府知事。昭和7年(1932)警視総監。従三位勲三等。62歳。
墓は、谷中霊園 乙4号12側。正面「長谷川家之墓」。