日下義雄(くさかよしお) 嘉永4年12月25日〜大正12年3月18日(1851-1923)
会津若松と郡山間に蒸気鉄道を走らせた元会津藩士。本名、石田五助。父、会津藩医師石田龍玄/常雄(長男)。岩代国会津若松出身。藩儒安部井政治に漢学を学び、ついで藩校「日新館」に学ぶ。戊辰戦争では鳥羽伏見の戦いで負傷、のち大鳥圭介の隊に投じ箱館五稜郭で戦い捕虜となり、江戸芝増上寺に収容される。このとき"義雄"と改め、明治3年(1870)赦免後姓を"日下"と変える。長崎・大阪に赴き、明治3年(1870)大阪英語学校に入る。井上馨の知遇を受け、明治4年(1871)岩倉使節団に同行するなど欧米を視察。またアメリカに留学をした。明治7年(1874)帰国し、紙幣寮に入る。ついで銀行学会長心得として生徒に算術を教えた。明治9年(1876)井上馨に従って欧州に赴き経済を研究。ロンドンのユニバーシティカレッジで統計学を修める。明治13年(1880)帰国。太政官権大書記官・農務省権大書記官などを歴任。明治19年(1886)初代長崎県令。明治25年(1892)福島県知事。明治28年(1895)弁理公司となるも海外駐在にはならず。明治29年(1896-1908)井上馨や渋沢栄一の勧めで第一銀行監査役に就任。衆議院議員。東京仙台間の鉄道が開通した後、会津若松と郡山間の鉄道計画は国の選定から洩れたため、民間資本の「岩越鉄道株式会社」を設立し明治32年(1899)7月15日に会津若松と郡山間に蒸気鉄道を走らせた。これにより地場産業が飛躍的に発展した。この間、愛国生命保険監査役・東京統計協会常議員・京釜鉄道常務などを務める。正四位勲二等。73歳。白虎隊士石田和助(1853-1868)の兄。
墓は、谷中霊園乙8号7側。舗装通路側から当該ブロックの最奥。変形ブロックでわかりにくいので乙8号10側に隣接しているので裏から入る方が良い。墓に向かって左側に井深元治の墓がある。政府高官として国事犯の墓を自分の墓地に建てるには勇気がいったものと思われる。もっとも、自分の墓がまだあるわけではないが。右側手前には、2番目の夫人日下静子(山形藩第2代藩主だった水野忠精の娘:明治33年12月22日没39歳)墓(正面「貞松院殿賢室妙静大姉」)がある。静子は、豊前国中津藩最後(9代)の藩主奥平昌邁(おくだいらまさゆき:1855-1884)と結婚したが、死別した。なお、最初の夫人日下可明子の墓は、乙2号5側にある。また、墓域内に日下達子(昭和22年7月5日没)という墓碑があるが、義雄は4回結婚をしていて、義雄より後で亡くなっているので、4人目の夫人の墓と思われる。もうひとつ正面「日下秀雄之墓」(明治21年〜29年)という子供の墓があるが、9歳で没した静子の子である。