井深元治(いぶかもとはる) 嘉永元年?〜明治6年2月5日(1848?-1873)
元会津藩士・「束松事件」犯人の一人。福島県出身。戊辰戦争後、新政府は、会津の治世を越前の久保村文四郎に命令するが、暴虐貪欲で、とくに贋金作りの探索では、容疑があると調べもせず惨殺した。また、会津藩士の死体埋葬を許可しなかったが、伴百悦等が手を尽くして埋葬を行った。しかし、民政局筆頭・越前藩士の久保村文四郎より撤去命令が出た。明治2年(1869)7月久保村に激怒した会津藩士伴百悦・井深元治・高津仲三郎・武田源蔵の4名が河沼郡束松峠にて久保村を暗殺した「束松事件」を起こした。元治は名前を上山大八と変え大阪に逃れ潜伏した。しばらくして、久保村殺害の首謀者は処刑されて、政府は他の犯人を追及しないと聞き及び、東京に出て日下義雄の紹介・井上馨の斡旋で学業を始めるが、密告され捕り、明治6年(1873)獄中にて死亡。25歳。このときの判事は、玉乃世履。屍は、小塚原回向院に投げられたという。
墓は、谷中霊園乙8号7側。日下義雄墓の隣り。正面「井深元治之墓」。建立は元会津藩士日下義雄。明治27年10月建立で死後20年以上経っているが官職の地位で獄死者の墓を建てたのには、井深元治の行為に賛同するところがあったからだろう。