日下可明子(くさかかめこ) 安政6年〜明治19年12月11日(1859-1886)
8代目長崎県令で実業家の日下義雄の最初の妻。父、元幕府御用達の菓子司の山内弥曾八(二女)。江戸(東京飯田町)出身。日下義雄が山内家に下宿したことから明治8年(1875)婚約。日下義雄は明治9年(1876)から4年間、井上馨に随行して欧州に滞在したが、その間、可明子は下谷御徒町の「静女塾」に通った。明治13年(1880)結婚。明治19年(1886)2月義雄が36歳のとき長崎県令となり長崎に赴任。5月に可明子も長崎に行った。明治19年(1886)12月長崎にあった「交親館」で各国の領事夫妻たちが集まって舞踏会が開かれ可明子も参加した。コルセットをきつく締め着飾った美人の可明子は人気があり、多くの紳士からダンスの申込を受け、疲れてついにダウンしてしまった。夫の義雄は、島原の温泉獄に飛脚を走らせ氷を取りにいかせたが、間に合わずに没した。28歳。
※ のちに義雄は長崎に稲佐製氷会社を設立した。ちなみに、義雄は、1年も経たずに2番目の夫人山形藩第2代藩主だった水野忠精の娘水野静子(こちらも×いち)と再婚。
墓は、谷中霊園 乙2号5側。一時長崎の晧台寺に葬り、のち谷中に移す。正面「日下可明子之墓」。「貞珠院殿可心通義大姉」。静子の墓は、日下義雄墓の傍にある。