平岡道弘(ひらおかみちひろ)     寛政10年9月16日〜明治11年4月17日(1798-1878)

    安房国船形藩主。通称、丹治。父、旗本大番の藤沢米和(二男)。母、大河内氏。甲斐国府中出身。文政3年(1820)9月旗本西丸小納戸頭平岡道忠の養子となる。文政5年(1822)25歳で11代将軍の書院番。のち、12代将軍徳川家慶および13代将軍徳川家定の御側御用取次となる。天保2年(1831)12月従五位丹波守に叙任。天保8年(1837)平岡道忠没。井伊大老就任に尽力。文久2年(1862)8月若年寄となり、5000石に加増。元治元年(1864)10月安房国内で10000石に加増、大名に列す。慶応元年(1865)船形藩を立藩。慶応3年(1867)5月京都見廻役となるが、6月に若年寄を辞する。慶応4年(1868)7月船形陣屋未完のまま領地を奉還し、上総安房監察兼県権知事柴山文平に引き渡す。また、明治2年(1869)徳川宗家の静岡藩大参事となる。明治3年(1870)辞職。在職51年徳川6代に仕える。81歳。

墓は、天眼寺墓地(谷中1-2-14)。墓地に入り、加藤安積墓前を右に、1本目の通路を左に行った左側。正面「光徳院殿雄道義英大居士」。写真奥。手前は、平岡道忠墓。