柴山典(しばやまてん)    文政5年1月〜明治17年10月11日(1822-1884)

    初代宮谷県権知事。旧久留米藩士。別名、文平。父、筑波国久留米藩士柴山三郎右衛門。幕末運動家真木和泉(1813-1864)と親交があった尊王攘夷派。京都親衛兵を命じられるが、藩論が変わり文久3年(1863)の政変後藩内守旧派により4年間の幽閉生活を強いられる。のち、東征軍の上州鎮定作戦に従事、前橋に赴き民衆の鎮撫にあたる。慶応4年(1868)7月2日明治新政府から安房・上総知県事に任命される。明治2元年〜明治4年(1869-1871)の安房上総(千葉県山武郡大網白里)初代宮谷県権知事。宮谷県は明治4年の廃藩置県後、木更津県となり、2か月で罷免となる。「一新確策」を県政の基本方針として、災害による農民の救済、米の備蓄、新田開発、堀割工事の実施、宮谷県学校の開設と郷校の配置など祭政一致の県政を推進した。しかし、窮民救助や地元の開発に流用したことにに係る公金横領の嫌疑を受け、謹慎30日の罰を受けた。後、裁判官、宮内省御用係や旧主有馬家の家令となった。63歳。即日特旨をもって従五位。著書:「皇統一系歌」など。

墓は、谷中霊園乙3号10側北端。中島歌子墓の前。正面「従五位柴山典墓」。